◎2019年12月11日(水)
いつもの駐車場……沢コース……二十丁……十四丁……高巻きで戻る……十七丁石祠……予定を変えて古道らしき道を追う……林道になる……伐採地……適当に下る……急斜面にたじろぐ……根本山登山口に出る……駐車場
※時間は敢えて記さない。極めて短時間の歩きで、通常の根本山往復タイム未満で終わっている。
8日・日曜日の出勤代休で出かけた。
ハイトスさんのブログで、根本沢沿いの十七丁の石祠を訪ねた記事を拝見し、その時は、ふ~ん、好きな方もいるものだなと思った程度だったが、その後に行かれた瀑泉さんからメールで、写真付きのルート詳細案内をいただき、これは、オレも後追いをしなきゃまずいかなといった状態になった。正直のところ、命がけで登った角力場は良い例だが、危険箇所を通過するらしい根本古道の周辺にさほど興味があるわけではないものの、石祠やら石碑、石像、隠れたスポットとなると気持ちも少しは動く。ただ、根本山の沢コースの高巻き区間は自分にはかなりしんどい。足の具合の不安定さもさることながら、根本沢を少なくとも50m以上の上から見下ろす急斜面の歩きはかなりの勇気が要る。ケガをする前は何も感じることがなかったのだが。こういった精神的なところにも後遺症が出ている。
ということで、今日は根本山の沢コース。ここ数日来の暖かさで足の痛みはかなり和らいでいる。家を出たのが7時45分。駐車場に着いたのは9時15分。隣町の桐生とはいえ、さすがに梅田最奥ともなれば遠い。梅田湖を過ぎると路面と木々の葉も濡れていたから、昨夜から今朝方にかけて雨が降ったようだ。駐車場には車が二台。一台はご苦労さまにも東京近接の埼玉県ナンバー。すでに人の気配はない。ハンターでなきゃいいが。以前、石鴨林道の小広いところで獲物の解体をしたらしく、周囲一面の雪が真っ赤になっていて気持ちが悪くなったことがある。
(沢入方面には行けない)
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(根本山登山案内図。沢コースに「二十一丁石」は存在しない。写真もぼんやりと撮っただけ)
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(沢コースに入る)
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三境林道は通行止めになっている。台風19号の爪あとか。帰ってから調べると、三境トンネル付近の法面崩落らしい。台風といえば、この時点では気づかなかったが、戻ってから桐生川を眺めると、大量の間伐が川淵に押し流されて積もっていた。これまで気づいたことはなかったから、これもまた台風の影響だろうが、瀑泉さんのレポにあった石鴨林道の荒れ具合からして、台風の影響はすさまじいものだと改めて思う。これから向かう沢コースが何ともなかった(でもなかったか)のが不思議なくらいだ。
不死熊橋の手前のコース案内図板を改めて確認する。二十丁石と十四丁石の間がブランク。二十丁石の手前の二十一丁石というのは存在せず、丁目石は流されている。これまでにもそんなことは当たり前のように知っているのに、案内図をいつも何気なく見ているから、毎度のように頭からはすぐに消え、今日の目印は二十丁石ということしかなく、後でこれがブログタイトルの「何だかなぁ」の結末になる。ただ、考えてみれば、ミスを冒したことにより、危うい歩きながらもハイトスさんの倒木地獄や瀑泉さんの急峻な岩場に遭遇せずに目的地に到達できたことは確かだ。
この先はいつもの歩きだから、改めて記すこともあるまい。沢コースのガイド記事はネット記事にもかなりあるから、話はいきなり二十丁目に飛ぶ。
(いつものこと。これが「二十一」に見える。通りすがりの丁目石では済まない。今日は石祠へのポイントだ。矢印とは反対に行かなきゃならないのに、二十一の誤認で矢印方向に沢を渡ってしまった)
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さて、ここにある丁目石。「二十丁」とあるのだが、「丁」の第一画が「一」に見えて「二十一丁」と早合点。以前にも、後になってここを二十一丁と勘違いしていたことに気づいたことがある。同じミスの繰り返し。認知症のカウントダウンであっても嘆きはしない。その兆候は以前からある。ハイトスさん、瀑泉さんのレポでは、ここの二十丁を看板矢印とは反対側の沢に入らねばならないのに、まだ二十一丁だからと思っているから迷わずに矢印方向の対岸に渉り、そのまま先に沢コースを歩くことになってしまう。ただ、繰り返しになるが、ここが二十丁のポイントだとわかっていたとしても、果たして両人の歩かれた険しいルートで石祠にお会いできたかははなはだ疑問なところだ。
(天狗のかけ橋だが、自分の頭ではあれが二十丁と思っていた。いつもの橋はない)
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(橋はこうなっていた)
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(ここが二十丁と思っているから、ここから左へ行くのかと思っていたが、沢コースそのものが左に行く。丁目石も見なかったし、おかしいなと思ってはいるが、特に気にもかけていない)
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高巻きになって天狗のかけ橋の堰堤階段が見えてきた。いつもと違った風景になっている。それもそのはず。肝心の橋が外されている。ぎりぎりセーフで飛び石伝いに濡れずに渉ったが、対岸に置かれたアルミの橋をよく見ると、支柱の端が折れている。そういえば、二十丁(頭の中では二十一丁)の手前に丸太の橋があったと思ったが、今日はその橋を渡った覚えがない。ということは、台風で流されたのか。アルミ橋も台風だろう。
ぼんやりと、かけ橋のあるここが二十丁だと思っていた。左手に沢もあったような…。だが、どこを探しまくっても丁目石は見あたらない。記憶違いかで済ませたが、さっきの丁目石からすでに100m以上は歩いているのに、この辺に見あたらないのがおかしいなと薄らぼんやりと疑問は出た。それもすぐに頭から消えた。
再び右岸側の高巻きになる。瀑泉さんからいただいたルートマップでは、石祠の位置が北西に登り上げる尾根の途中にあった。あの尾根だろうかなんて考えながら歩いている。尾根末端部はすでに通り過ぎていることに気づいていない。しかし、何でこう長く二十丁目石が出てこないのだろう。今、歩いているのは二十丁目から十四丁目の区間ではないのかという疑問が出てきて、もしかして、自分の確認した二十一丁は二十だったのではと思いはじめるようになり、それは次第に確信になってきた。
(やはりなぁと思った。あそこは十四丁だ)
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(ここまで来たのなら戻りの算段をしなくてはならない)
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やはりそうだった。高巻きから下って着いたところには十四丁の丁目石があった。左から入り込む沢は名前のあるヒノキデ沢だ。やっちまったか。乾いた石を見つけて腰かけ、ザックから瀑泉さん資料を取り出す。やはりあれは二十一丁ではなく二十丁だった。これからどうするかを考える。地図をつぶさに見る。地図には石祠の位置をマークしてある。
石祠を次回に回して、このまま沢コースで根本山に向かったのではまったく意味がない。もとより目的は石祠にあったし、石祠が尾根上にあることから、その先は尾根伝いに974m標高点を経由して1069mで三境山と根本山を結ぶ稜線に出るつもりでいた。後はその時の時間と体力次第でいずれの山に行くということで決めてはいない。
十四丁と石祠尾根との間には尾根が一本と沢型の窪みが一つ。ここまで歩いた高巻き道を二十丁に戻るというのもしゃくだ。妙案として目の前の尾根を上がり、石祠尾根との合流部から下るという発想も浮かんだ。だが、これはあくまでも地図上のプランで、現実のそちらを見上げると急な岩尾根になっていて厄介そうだ。まして、それをやってしまうと、石祠までは両尾根合流点から100m下りになり、おそらく、また登り返しで稜線に出る気持ちは失せてしまい、危険な思いをして二十丁に戻ることになりそうだ。瀑泉さんルートを下りで使用する自信はない。岩壁で立ち往生になるだろう。トラバースしかないか…。これが結論。
(高巻きで歩くと、すぐに尾根に乗れる気配。これを上がれば、必ず後で後悔するだろう)
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(ピンクのヒラヒラ)
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(振り返って)
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高巻き道の上をソロリソロリと進んだ。今日はスパ地下にして正解だった。何せつかまる木が乏しすぎる。高巻き道からでさえ根本沢を見下ろすと転げ落ちたらただでは済まないと思っているのに、そのさらに上の斜面を歩いている。よほどに潅木が多そうな岩場に出て尾根に上がろうとしたが、それだけは自制した。一歩踏み外したらとんでもないことになるだろう。
尾根部を無事に横切った。先は窪みにはなっていない。斜度はそのまま。石祠尾根が近くに見えてくる。ふと、左下4mほどのところにピンクのヒラヒラが見えた。ハイトスさんのブログ記事を思い出した。ハイトスさんが同行された方が、目印にテープを付けたとあった。そこは、自分が辿っているところは傾斜地だが、か細いながらも平らな薄い踏み跡が続いている。少しほっとはしたが、4mをどう縮めよう。直に下ったらまずアウト。急斜面を流されるのがオチ。
(十七丁の石祠はあの尾根にあるはず)
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(余裕気分になってカギ裂きを撮る)
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(ご対面)
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(向こうから上がって来た)
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(瀑泉さんルート)
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大汗をかいた。今日の陽気で下のヒートテックは失敗だったなと思ったが、これは冷や汗だ。かろうじて視界にある木に抱きついてはゆっくりと斜めに、とにかく、見るからに頼りない木の根やら太目の生木の幹にそっと手をかけて着地した。体重を預けるわけにはいかなかった。ノドはすでにカラカラ。その間、履いていた運動着のズボン(今は何と言うのか。「トレパンの下」と記そうとしたら、「トレパン」はオムツのことを意味するらしい)を岩に引っかけてカギ裂きにしてしまった。
落葉が積もった道状の踏み跡が石祠尾根に続いている。ここまで来れば安心だろうとテープを追い、カメラ撮りの余裕もできた。尾根が目の前に現れる。乗り越える。右に石祠が二基。本日の目的はイレギュラーな歩きながらも達成できた。ほっとした。これでは命がけではないか。
ザックをおろして、地べたに腰をおろす。石祠は後回しにして水を飲み、タバコを吸ってしばらく呆けた状態でいた。尾根下に岩が見えた。瀑泉さんはおそらく、ここを下から登って来られたのだろう。よくもまぁと感心するし、これから登るつもりでいた石祠から先上の尾根はさらに斜度を増している。
落ち着いたところで石祠の見学。石祠には「寛政九」(西暦1797年)の文字が読み取れ、すぐに自分の頭の中に松平定信の名前が浮かぶ。他の文字は「九月」しか自分には読めない。ハイトスさんの記事には、この沢コース先の二基並ぶ石祠と奉納者名と神社名が同一だとあったが、ハイトスさんのご同行の方の解説であったとしても、刻まれた消えかかった文字を読めるのはすごいものだと思う。自分なら、二基だから、八面の拓本をとったとしても果たして読めるかどうか。賽銭が二十円置かれている。
ここで、ここに十七丁があったという説だが、一見のハイカーに過ぎない自分が、意見やら感想云々をする立場にはないものの敢えていくつかの疑問。十四丁から引き返した形で歩いた所感としては、距離的には確かにここを十七丁であるとしてもおかしくはないと思う。ただ、往時の古道としては、当然、今とは地形も異なっていたという前提があるとしても、二十丁から先、ここを経由するとなると、かなり険阻で狭隘なところの歩きになるのではないだろうか。今の沢コースよりもさらに高巻きとなる。修験道の道でもあるまい、信仰の道だ。根本山に参拝に詣でるなら、だれしも、安全に歩けるように、沢寄りの傾斜の少ない安全ルートを歩くのではないだろうか。今の地形のままなら、天狗のかけ橋ももっとあったろうし、この石祠を経由するとなると転落事故多発になるような気がする。まして、雑穀を主食としている時代の人たち。現代人ほどのエネルギーはない。さらに先には山頂直下の鎖場もある。もっとも、今と違って、二十丁から十四丁区間が、この部分斜面だけ樹々が生い茂って安全だったというのなら、ここに信仰の道が通っていたとしても不思議ではない。絵図もろくに見ていない立場からの感想だ。
勝手な妄想になる。後述になるが、帰路で林道に下る途中で不思議な空間があり、そこで墓石を見つけた。その周辺にかつては集落があったことは想像できるし、当然、その集落から根本山に続く道もあったろう。あるいは、由良氏に滅ぼされた桐生氏の残党の一部が住み着いたところかもしれない。ネットで調べると、根本山神仰は柄杓城を追われた桐生氏の残党が興した講らしい。それを考慮すると、この石祠も、十七丁ではなく、別ルートで沢コースに合流する途中に設けられた目印的なものだったと考えることもできる。あくまでも「勝手な妄想」とした。これに対しての反論を受けられても、根本山に精通した郷土史家でもない自分には返答のしようがない。脈絡のない想像なのだし。
(これを登るのもなぁと)
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(こちらを選ぶ)
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さて、予定ではこの尾根を登って行くつもりでいたが、短時間ながらかなり心身ともに参ってしまい、普段なら何ともない見上げる尾根はかなり急に見え、稜線に出るプランはあっさりと引っ込め、尾根巻きで石祠の後ろから続く道状の踏み跡が気になり、これを辿ってみることにした。この踏み跡は、瀑泉さんメールでは、もしかして古道かも?と気にされていた道だ。
ここからストックを出して先に進んでみる。尾根上にもかすかな踏み跡は見えているが、ここを歩いて稜線に出ることは、自分のような物好き以外にいるとは想定しづらく、おそらくはシカ道だろう。むしろ、これから向かう左裾野の道が明瞭だ。ちょっとした期待もあったが、その期待もほんの数分で終わった。
(ロープがあるということは、ここを歩く人もいるわけだ)
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(廃林道になってしまった)
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滑りやすい岩場にはロープが張られ、別にそれに頼る必要はなかったが、ロープが終わると、その先は幅広の林道になっていてがっかり。間伐が斜めに道を塞いだりしているから、正確には廃林道だろう。作業道と呼ぶには幅がある。以前はユンボでも通ったのだろう。問題は、この道が古道の上にできたものなのかどうかだが、左右に逃げている踏み跡がない以上は確認のしようもない。古道かどうかはどうでもいいか。十七丁の石祠を見た後ではかなり投げやりになってしまうが、この林道をそのまま追ってみることにしよう。
(最初の分岐。直進するが、左は植林に入り込み、左下に行くようだ)
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(次の分岐。右上に向かっている。ここはそちらには行かず、画面に見えない右からそのまま直進)
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道が左に分岐する。これは下っていて、明らかに作業道。植林の中に入り込んで行く。さらに左に回り込んでいる気配もあるから、やがては瀑泉さんが利用した「踏み跡」になるのかもしれない。それはともかく、ここは分岐を無視して明るい側の道を直進。
分岐がまた出る。右上に向かう分岐。道幅はほぼ同じ。上に向かうところからして、明らかに植林、伐採仕事がらみの道だとわかる。廃林道の終点側から歩くことになったが、反対側から来れば、上に向かう道が本道だろうことは明らか。今さら尾根に乗る考えを復活させてもしょうがないので、そのまま直進する。
(おとなしい林道に見える)
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(本日、唯一の色づき)
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(崩壊地)
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(先が明るくなっている。伐採地だろう)
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林道はしばらく続く。あのカーブで終わりかと思っても曲がると先が続いている。周囲はヒノキの植林帯。道の崩壊も出てきたり大きな石が転がっていたりで、かなり荒れてくる。やがて、先がパッと明るくなっている。あの感じでは伐採地のようだ。
(やはり伐採地)
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(伐採地から1)
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(伐採地から2)
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(林道は北東方面に向かっている)
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(あそこからここに下って来た)
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伐採地に出た。すこぶる展望が良い。今、884m標高点南西の790mあたりにいる。正面は谷間になっている。左方向に三境山が見えるはずだが、地図と照らし合わせても、現実の地形は複雑になっていて、どうも頭の中で整理がつかない。もしくは、三境山は視界からは隠れているのかもしれない。廃林道はといえば、ここで右上にカーブして884m尾根に登り上げている。廃林道というよりも、伐採地そのものが新しいから、まだ現役かもしれない。南側からブル道のようなのが上がって来ている。おそらくは三境林道から入り込み、884m尾根に向かっているのだろうが、ここまでの廃林道との関係はわからないものの、石祠の先にあった二つ目の分岐林道とやがては合流しているのかもしれない。
腹を満たしてだらだらと時間をつぶす。ここは暖かいし、今日はあまり風もない。さぁてと腰を上げるが、ここからどうやって下るか決めかねている。もう林道追いはやめよう。ブル道を三境林道に下ったところで何も収穫はなさそうだ。
(ここを下ろうとしたが)
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(ここで気が変わって、左下に下る)
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伐採地と植林の間にフェンスが続いている。当初、それに沿って下ろうかと思い、廃林道に戻って岩場を一旦くだったが、あまり面白くもなさげで、改めて地図を見る。今度の地図は最新版の地図だが、これまで見ていた古い地図にはない破線路が南にあった。不死熊橋の少し手前から884m尾根を横切り、ほぼ西に向かって中途半端に終わっている。どうも新しい作業道らしい。あれを使ってみようか。変に三境林道に出ようとして、擁壁に阻まれ、出口を探す羽目になるよりはましだろう。植林の中に入り込み、適当に南東に下る。
(間伐やら倒木が多くて歩きづらい)
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(こんな空間があった。あの石は石碑かと思ったが)
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(墓石だった)
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(墓地だとしたら、一基しかないのが不思議)
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適当にとはいっても、やはり植林帯だ。間伐やら倒木で歩きづらい。緩斜面なのがせめてもの救い。歩きやすいところを選んで下る。たまに踏み跡を見つけるが、気まぐれに途切れるからこれらは無視。
そこだけが地面が黄色くなっているスポットがあった。黄色はイチョウの葉だった。そのスポットはおよそ12~3m四方だろうか。その一帯だけは植林されていない。ポツンと平らな石が立っている。もしかして石碑だろうかと前に回り込む。墓碑だった。三行に渡って記された字の中に「信女」という字が読み取れた。「●治●四卯年」「●…昌信女…」「十一月●日」。ここは墓地だったのだろうがこの一基しかないのが気になる。宅地内にあった墓だとしても、ここは緩いながらも斜面で、家があったには不自然な地形だ。周囲に平地は確かにあるが、そこは植林地になっている。ここに墓がある以上、近くに人家もしくは集落があったことは確かだ。この発想が飛躍して、さっきの十七丁石祠に通じる沢コースとは違う古道があったのではといった根拠なしの妄想を生む。ハイトスさん記事によれば、宮司さん談として、十七丁石祠西側の沢の上流に人家があったそうなとあるが、そこに限らず、根本沢の北側広範囲に人家が点在し、集落もあり、それをつなぐ道もあれば、石祠があっても不思議ではない。気ままな想像はこの程度にしておこう。
(フェンスが出てくる)
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(まだのんびりと歩ける。最新地図の破線路になっている)
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(正面に県境尾根。根本沢を境にして906mまで左が栃木県、右が群馬県となる)
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植林が左側に集約されて行く。その境には用を成さないフェンスが倒れたままに続いている。いずれを選ぶか迷ったが、植林の末端部は決まって激斜面だ。ここはヤセた松が主体の雑木側を選んだが、結果として、これは甘かった。それはともかく、そろそろ破線路に近づくんじゃないのかとGPSを取り出すと、すでにそれを歩いている。どうもこのフェンスがそれらしいが、道はおろか踏み跡すらない。古い地図ならともかく、ネットで刷り出した最新版の地理院地図だ。首を傾げてしまうが、別に今回に限らないことだし、やはりなぁで終わった。下れば黙っていても林道に出る。まぁ、地図は最新版でもあまり信用するなということ。
(ここからかなりヤバい急斜面。かなり怯んだ)
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(振り返る。登るには苦にもならないだろうが)
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緩斜面が急になったと思ったところで、段差があり、その先が見えなくなった。石祠で出したストックは収めた。左の植林はここから激斜面になっている。こちらもそうかと思ったらまさにそうで、かなり急になっていて、つかまる樹もまばら。植林側も同じようなもの。もうここはあきらめてそのまま下る。
(左の滝は不死熊橋から見える小滝)
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(ここがどうにも降りられない)
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ジグザグに下って、真下に林道が見え、左には不死熊橋手前に置かれた根本山登山コースの看板が見えている。林道着地まで5mもないが、これがまた下りるに下りられない急斜面。手がかり足がかりもない。植林を看板側に回ると、ちょっとした擁壁になっていて戻る。ザックから5mの細引きを出そうとしたが、この長さでは2.5m分しか使えないか、捨てロープにするしかない。それではもったいない。さりとて、尻滑りで下れる傾斜ではない。ここもまたソロリソロリで、這っている木の根をつかみ、最後は滑り落ちてヤレヤレとなった。
(ここに出た。ここもまた、登りで使うにはさして苦労もするまい。下りでは四苦八苦だった)
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見上げると、自分の危なげに下りたところには踏み跡が見えた。確かに、登る分には四つん這いにしても行けるだろうが、自分には下り使用はとてつもなく難儀。この踏み跡が破線路の正体か。
(駐車場に向かう)
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(間伐の堆積)
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駐車場に戻る。出発から3時間しか経っていない。えらく疲れた。出発時の車はそのまま。さらに一台の追加だ。エンジンを暖め、タバコを吸う。ここでいきなり便圧が高まった。実は十四丁からの危ういトラバースの途中でいきなり便意に見舞われたが、それどころではなかったのでこらえて収まり、以降は忘れていたが、ここに来ての再訪。どうせ三境林道は通行止めだ。そのガード下で落ち着いた。水筒の水で手を洗い、残り水は捨てた。
先日の金山レベルの短時間歩きで終わり。だが、自分のミスから発生させた十四丁からのトラバースと林道への下り立ちが今日の核心となってかなり疲れた。寄り道もなく沢コースで根本山、下りは中尾根コースのレギュラー歩きをしていれば、熊鷹山チョイも加えたろうが、大周回ができなかったところで、別に後悔はない。肝心の十七丁石祠を見て、さらにいろいろと想像できる墓碑も見たのだからそれで結構。
実はあわよくばと思っていたコースだが、熊鷹山から丸岩岳に行き、906m標高点から県境ルートで駐車地に戻ることを想定していた。丸岩岳から北西に下って石鴨林道に出たことはあった。今日、下り途中から丸岩岳に続く県境尾根の帯状地帯を見て、いずれ歩かねばなと思ってしまった。
いつもの駐車場……沢コース……二十丁……十四丁……高巻きで戻る……十七丁石祠……予定を変えて古道らしき道を追う……林道になる……伐採地……適当に下る……急斜面にたじろぐ……根本山登山口に出る……駐車場
※時間は敢えて記さない。極めて短時間の歩きで、通常の根本山往復タイム未満で終わっている。
8日・日曜日の出勤代休で出かけた。
ハイトスさんのブログで、根本沢沿いの十七丁の石祠を訪ねた記事を拝見し、その時は、ふ~ん、好きな方もいるものだなと思った程度だったが、その後に行かれた瀑泉さんからメールで、写真付きのルート詳細案内をいただき、これは、オレも後追いをしなきゃまずいかなといった状態になった。正直のところ、命がけで登った角力場は良い例だが、危険箇所を通過するらしい根本古道の周辺にさほど興味があるわけではないものの、石祠やら石碑、石像、隠れたスポットとなると気持ちも少しは動く。ただ、根本山の沢コースの高巻き区間は自分にはかなりしんどい。足の具合の不安定さもさることながら、根本沢を少なくとも50m以上の上から見下ろす急斜面の歩きはかなりの勇気が要る。ケガをする前は何も感じることがなかったのだが。こういった精神的なところにも後遺症が出ている。
ということで、今日は根本山の沢コース。ここ数日来の暖かさで足の痛みはかなり和らいでいる。家を出たのが7時45分。駐車場に着いたのは9時15分。隣町の桐生とはいえ、さすがに梅田最奥ともなれば遠い。梅田湖を過ぎると路面と木々の葉も濡れていたから、昨夜から今朝方にかけて雨が降ったようだ。駐車場には車が二台。一台はご苦労さまにも東京近接の埼玉県ナンバー。すでに人の気配はない。ハンターでなきゃいいが。以前、石鴨林道の小広いところで獲物の解体をしたらしく、周囲一面の雪が真っ赤になっていて気持ちが悪くなったことがある。
(沢入方面には行けない)

(根本山登山案内図。沢コースに「二十一丁石」は存在しない。写真もぼんやりと撮っただけ)

(沢コースに入る)

三境林道は通行止めになっている。台風19号の爪あとか。帰ってから調べると、三境トンネル付近の法面崩落らしい。台風といえば、この時点では気づかなかったが、戻ってから桐生川を眺めると、大量の間伐が川淵に押し流されて積もっていた。これまで気づいたことはなかったから、これもまた台風の影響だろうが、瀑泉さんのレポにあった石鴨林道の荒れ具合からして、台風の影響はすさまじいものだと改めて思う。これから向かう沢コースが何ともなかった(でもなかったか)のが不思議なくらいだ。
不死熊橋の手前のコース案内図板を改めて確認する。二十丁石と十四丁石の間がブランク。二十丁石の手前の二十一丁石というのは存在せず、丁目石は流されている。これまでにもそんなことは当たり前のように知っているのに、案内図をいつも何気なく見ているから、毎度のように頭からはすぐに消え、今日の目印は二十丁石ということしかなく、後でこれがブログタイトルの「何だかなぁ」の結末になる。ただ、考えてみれば、ミスを冒したことにより、危うい歩きながらもハイトスさんの倒木地獄や瀑泉さんの急峻な岩場に遭遇せずに目的地に到達できたことは確かだ。
この先はいつもの歩きだから、改めて記すこともあるまい。沢コースのガイド記事はネット記事にもかなりあるから、話はいきなり二十丁目に飛ぶ。
(いつものこと。これが「二十一」に見える。通りすがりの丁目石では済まない。今日は石祠へのポイントだ。矢印とは反対に行かなきゃならないのに、二十一の誤認で矢印方向に沢を渡ってしまった)

さて、ここにある丁目石。「二十丁」とあるのだが、「丁」の第一画が「一」に見えて「二十一丁」と早合点。以前にも、後になってここを二十一丁と勘違いしていたことに気づいたことがある。同じミスの繰り返し。認知症のカウントダウンであっても嘆きはしない。その兆候は以前からある。ハイトスさん、瀑泉さんのレポでは、ここの二十丁を看板矢印とは反対側の沢に入らねばならないのに、まだ二十一丁だからと思っているから迷わずに矢印方向の対岸に渉り、そのまま先に沢コースを歩くことになってしまう。ただ、繰り返しになるが、ここが二十丁のポイントだとわかっていたとしても、果たして両人の歩かれた険しいルートで石祠にお会いできたかははなはだ疑問なところだ。
(天狗のかけ橋だが、自分の頭ではあれが二十丁と思っていた。いつもの橋はない)

(橋はこうなっていた)

(ここが二十丁と思っているから、ここから左へ行くのかと思っていたが、沢コースそのものが左に行く。丁目石も見なかったし、おかしいなと思ってはいるが、特に気にもかけていない)

高巻きになって天狗のかけ橋の堰堤階段が見えてきた。いつもと違った風景になっている。それもそのはず。肝心の橋が外されている。ぎりぎりセーフで飛び石伝いに濡れずに渉ったが、対岸に置かれたアルミの橋をよく見ると、支柱の端が折れている。そういえば、二十丁(頭の中では二十一丁)の手前に丸太の橋があったと思ったが、今日はその橋を渡った覚えがない。ということは、台風で流されたのか。アルミ橋も台風だろう。
ぼんやりと、かけ橋のあるここが二十丁だと思っていた。左手に沢もあったような…。だが、どこを探しまくっても丁目石は見あたらない。記憶違いかで済ませたが、さっきの丁目石からすでに100m以上は歩いているのに、この辺に見あたらないのがおかしいなと薄らぼんやりと疑問は出た。それもすぐに頭から消えた。
再び右岸側の高巻きになる。瀑泉さんからいただいたルートマップでは、石祠の位置が北西に登り上げる尾根の途中にあった。あの尾根だろうかなんて考えながら歩いている。尾根末端部はすでに通り過ぎていることに気づいていない。しかし、何でこう長く二十丁目石が出てこないのだろう。今、歩いているのは二十丁目から十四丁目の区間ではないのかという疑問が出てきて、もしかして、自分の確認した二十一丁は二十だったのではと思いはじめるようになり、それは次第に確信になってきた。
(やはりなぁと思った。あそこは十四丁だ)

(ここまで来たのなら戻りの算段をしなくてはならない)

やはりそうだった。高巻きから下って着いたところには十四丁の丁目石があった。左から入り込む沢は名前のあるヒノキデ沢だ。やっちまったか。乾いた石を見つけて腰かけ、ザックから瀑泉さん資料を取り出す。やはりあれは二十一丁ではなく二十丁だった。これからどうするかを考える。地図をつぶさに見る。地図には石祠の位置をマークしてある。
石祠を次回に回して、このまま沢コースで根本山に向かったのではまったく意味がない。もとより目的は石祠にあったし、石祠が尾根上にあることから、その先は尾根伝いに974m標高点を経由して1069mで三境山と根本山を結ぶ稜線に出るつもりでいた。後はその時の時間と体力次第でいずれの山に行くということで決めてはいない。
十四丁と石祠尾根との間には尾根が一本と沢型の窪みが一つ。ここまで歩いた高巻き道を二十丁に戻るというのもしゃくだ。妙案として目の前の尾根を上がり、石祠尾根との合流部から下るという発想も浮かんだ。だが、これはあくまでも地図上のプランで、現実のそちらを見上げると急な岩尾根になっていて厄介そうだ。まして、それをやってしまうと、石祠までは両尾根合流点から100m下りになり、おそらく、また登り返しで稜線に出る気持ちは失せてしまい、危険な思いをして二十丁に戻ることになりそうだ。瀑泉さんルートを下りで使用する自信はない。岩壁で立ち往生になるだろう。トラバースしかないか…。これが結論。
(高巻きで歩くと、すぐに尾根に乗れる気配。これを上がれば、必ず後で後悔するだろう)

(ピンクのヒラヒラ)

(振り返って)

高巻き道の上をソロリソロリと進んだ。今日はスパ地下にして正解だった。何せつかまる木が乏しすぎる。高巻き道からでさえ根本沢を見下ろすと転げ落ちたらただでは済まないと思っているのに、そのさらに上の斜面を歩いている。よほどに潅木が多そうな岩場に出て尾根に上がろうとしたが、それだけは自制した。一歩踏み外したらとんでもないことになるだろう。
尾根部を無事に横切った。先は窪みにはなっていない。斜度はそのまま。石祠尾根が近くに見えてくる。ふと、左下4mほどのところにピンクのヒラヒラが見えた。ハイトスさんのブログ記事を思い出した。ハイトスさんが同行された方が、目印にテープを付けたとあった。そこは、自分が辿っているところは傾斜地だが、か細いながらも平らな薄い踏み跡が続いている。少しほっとはしたが、4mをどう縮めよう。直に下ったらまずアウト。急斜面を流されるのがオチ。
(十七丁の石祠はあの尾根にあるはず)

(余裕気分になってカギ裂きを撮る)

(ご対面)

(向こうから上がって来た)

(瀑泉さんルート)

大汗をかいた。今日の陽気で下のヒートテックは失敗だったなと思ったが、これは冷や汗だ。かろうじて視界にある木に抱きついてはゆっくりと斜めに、とにかく、見るからに頼りない木の根やら太目の生木の幹にそっと手をかけて着地した。体重を預けるわけにはいかなかった。ノドはすでにカラカラ。その間、履いていた運動着のズボン(今は何と言うのか。「トレパンの下」と記そうとしたら、「トレパン」はオムツのことを意味するらしい)を岩に引っかけてカギ裂きにしてしまった。
落葉が積もった道状の踏み跡が石祠尾根に続いている。ここまで来れば安心だろうとテープを追い、カメラ撮りの余裕もできた。尾根が目の前に現れる。乗り越える。右に石祠が二基。本日の目的はイレギュラーな歩きながらも達成できた。ほっとした。これでは命がけではないか。
ザックをおろして、地べたに腰をおろす。石祠は後回しにして水を飲み、タバコを吸ってしばらく呆けた状態でいた。尾根下に岩が見えた。瀑泉さんはおそらく、ここを下から登って来られたのだろう。よくもまぁと感心するし、これから登るつもりでいた石祠から先上の尾根はさらに斜度を増している。
落ち着いたところで石祠の見学。石祠には「寛政九」(西暦1797年)の文字が読み取れ、すぐに自分の頭の中に松平定信の名前が浮かぶ。他の文字は「九月」しか自分には読めない。ハイトスさんの記事には、この沢コース先の二基並ぶ石祠と奉納者名と神社名が同一だとあったが、ハイトスさんのご同行の方の解説であったとしても、刻まれた消えかかった文字を読めるのはすごいものだと思う。自分なら、二基だから、八面の拓本をとったとしても果たして読めるかどうか。賽銭が二十円置かれている。
ここで、ここに十七丁があったという説だが、一見のハイカーに過ぎない自分が、意見やら感想云々をする立場にはないものの敢えていくつかの疑問。十四丁から引き返した形で歩いた所感としては、距離的には確かにここを十七丁であるとしてもおかしくはないと思う。ただ、往時の古道としては、当然、今とは地形も異なっていたという前提があるとしても、二十丁から先、ここを経由するとなると、かなり険阻で狭隘なところの歩きになるのではないだろうか。今の沢コースよりもさらに高巻きとなる。修験道の道でもあるまい、信仰の道だ。根本山に参拝に詣でるなら、だれしも、安全に歩けるように、沢寄りの傾斜の少ない安全ルートを歩くのではないだろうか。今の地形のままなら、天狗のかけ橋ももっとあったろうし、この石祠を経由するとなると転落事故多発になるような気がする。まして、雑穀を主食としている時代の人たち。現代人ほどのエネルギーはない。さらに先には山頂直下の鎖場もある。もっとも、今と違って、二十丁から十四丁区間が、この部分斜面だけ樹々が生い茂って安全だったというのなら、ここに信仰の道が通っていたとしても不思議ではない。絵図もろくに見ていない立場からの感想だ。
勝手な妄想になる。後述になるが、帰路で林道に下る途中で不思議な空間があり、そこで墓石を見つけた。その周辺にかつては集落があったことは想像できるし、当然、その集落から根本山に続く道もあったろう。あるいは、由良氏に滅ぼされた桐生氏の残党の一部が住み着いたところかもしれない。ネットで調べると、根本山神仰は柄杓城を追われた桐生氏の残党が興した講らしい。それを考慮すると、この石祠も、十七丁ではなく、別ルートで沢コースに合流する途中に設けられた目印的なものだったと考えることもできる。あくまでも「勝手な妄想」とした。これに対しての反論を受けられても、根本山に精通した郷土史家でもない自分には返答のしようがない。脈絡のない想像なのだし。
(これを登るのもなぁと)

(こちらを選ぶ)

さて、予定ではこの尾根を登って行くつもりでいたが、短時間ながらかなり心身ともに参ってしまい、普段なら何ともない見上げる尾根はかなり急に見え、稜線に出るプランはあっさりと引っ込め、尾根巻きで石祠の後ろから続く道状の踏み跡が気になり、これを辿ってみることにした。この踏み跡は、瀑泉さんメールでは、もしかして古道かも?と気にされていた道だ。
ここからストックを出して先に進んでみる。尾根上にもかすかな踏み跡は見えているが、ここを歩いて稜線に出ることは、自分のような物好き以外にいるとは想定しづらく、おそらくはシカ道だろう。むしろ、これから向かう左裾野の道が明瞭だ。ちょっとした期待もあったが、その期待もほんの数分で終わった。
(ロープがあるということは、ここを歩く人もいるわけだ)

(廃林道になってしまった)

滑りやすい岩場にはロープが張られ、別にそれに頼る必要はなかったが、ロープが終わると、その先は幅広の林道になっていてがっかり。間伐が斜めに道を塞いだりしているから、正確には廃林道だろう。作業道と呼ぶには幅がある。以前はユンボでも通ったのだろう。問題は、この道が古道の上にできたものなのかどうかだが、左右に逃げている踏み跡がない以上は確認のしようもない。古道かどうかはどうでもいいか。十七丁の石祠を見た後ではかなり投げやりになってしまうが、この林道をそのまま追ってみることにしよう。
(最初の分岐。直進するが、左は植林に入り込み、左下に行くようだ)

(次の分岐。右上に向かっている。ここはそちらには行かず、画面に見えない右からそのまま直進)

道が左に分岐する。これは下っていて、明らかに作業道。植林の中に入り込んで行く。さらに左に回り込んでいる気配もあるから、やがては瀑泉さんが利用した「踏み跡」になるのかもしれない。それはともかく、ここは分岐を無視して明るい側の道を直進。
分岐がまた出る。右上に向かう分岐。道幅はほぼ同じ。上に向かうところからして、明らかに植林、伐採仕事がらみの道だとわかる。廃林道の終点側から歩くことになったが、反対側から来れば、上に向かう道が本道だろうことは明らか。今さら尾根に乗る考えを復活させてもしょうがないので、そのまま直進する。
(おとなしい林道に見える)

(本日、唯一の色づき)

(崩壊地)

(先が明るくなっている。伐採地だろう)

林道はしばらく続く。あのカーブで終わりかと思っても曲がると先が続いている。周囲はヒノキの植林帯。道の崩壊も出てきたり大きな石が転がっていたりで、かなり荒れてくる。やがて、先がパッと明るくなっている。あの感じでは伐採地のようだ。
(やはり伐採地)

(伐採地から1)

(伐採地から2)

(林道は北東方面に向かっている)

(あそこからここに下って来た)

伐採地に出た。すこぶる展望が良い。今、884m標高点南西の790mあたりにいる。正面は谷間になっている。左方向に三境山が見えるはずだが、地図と照らし合わせても、現実の地形は複雑になっていて、どうも頭の中で整理がつかない。もしくは、三境山は視界からは隠れているのかもしれない。廃林道はといえば、ここで右上にカーブして884m尾根に登り上げている。廃林道というよりも、伐採地そのものが新しいから、まだ現役かもしれない。南側からブル道のようなのが上がって来ている。おそらくは三境林道から入り込み、884m尾根に向かっているのだろうが、ここまでの廃林道との関係はわからないものの、石祠の先にあった二つ目の分岐林道とやがては合流しているのかもしれない。
腹を満たしてだらだらと時間をつぶす。ここは暖かいし、今日はあまり風もない。さぁてと腰を上げるが、ここからどうやって下るか決めかねている。もう林道追いはやめよう。ブル道を三境林道に下ったところで何も収穫はなさそうだ。
(ここを下ろうとしたが)

(ここで気が変わって、左下に下る)

伐採地と植林の間にフェンスが続いている。当初、それに沿って下ろうかと思い、廃林道に戻って岩場を一旦くだったが、あまり面白くもなさげで、改めて地図を見る。今度の地図は最新版の地図だが、これまで見ていた古い地図にはない破線路が南にあった。不死熊橋の少し手前から884m尾根を横切り、ほぼ西に向かって中途半端に終わっている。どうも新しい作業道らしい。あれを使ってみようか。変に三境林道に出ようとして、擁壁に阻まれ、出口を探す羽目になるよりはましだろう。植林の中に入り込み、適当に南東に下る。
(間伐やら倒木が多くて歩きづらい)

(こんな空間があった。あの石は石碑かと思ったが)

(墓石だった)

(墓地だとしたら、一基しかないのが不思議)

適当にとはいっても、やはり植林帯だ。間伐やら倒木で歩きづらい。緩斜面なのがせめてもの救い。歩きやすいところを選んで下る。たまに踏み跡を見つけるが、気まぐれに途切れるからこれらは無視。
そこだけが地面が黄色くなっているスポットがあった。黄色はイチョウの葉だった。そのスポットはおよそ12~3m四方だろうか。その一帯だけは植林されていない。ポツンと平らな石が立っている。もしかして石碑だろうかと前に回り込む。墓碑だった。三行に渡って記された字の中に「信女」という字が読み取れた。「●治●四卯年」「●…昌信女…」「十一月●日」。ここは墓地だったのだろうがこの一基しかないのが気になる。宅地内にあった墓だとしても、ここは緩いながらも斜面で、家があったには不自然な地形だ。周囲に平地は確かにあるが、そこは植林地になっている。ここに墓がある以上、近くに人家もしくは集落があったことは確かだ。この発想が飛躍して、さっきの十七丁石祠に通じる沢コースとは違う古道があったのではといった根拠なしの妄想を生む。ハイトスさん記事によれば、宮司さん談として、十七丁石祠西側の沢の上流に人家があったそうなとあるが、そこに限らず、根本沢の北側広範囲に人家が点在し、集落もあり、それをつなぐ道もあれば、石祠があっても不思議ではない。気ままな想像はこの程度にしておこう。
(フェンスが出てくる)

(まだのんびりと歩ける。最新地図の破線路になっている)

(正面に県境尾根。根本沢を境にして906mまで左が栃木県、右が群馬県となる)

植林が左側に集約されて行く。その境には用を成さないフェンスが倒れたままに続いている。いずれを選ぶか迷ったが、植林の末端部は決まって激斜面だ。ここはヤセた松が主体の雑木側を選んだが、結果として、これは甘かった。それはともかく、そろそろ破線路に近づくんじゃないのかとGPSを取り出すと、すでにそれを歩いている。どうもこのフェンスがそれらしいが、道はおろか踏み跡すらない。古い地図ならともかく、ネットで刷り出した最新版の地理院地図だ。首を傾げてしまうが、別に今回に限らないことだし、やはりなぁで終わった。下れば黙っていても林道に出る。まぁ、地図は最新版でもあまり信用するなということ。
(ここからかなりヤバい急斜面。かなり怯んだ)

(振り返る。登るには苦にもならないだろうが)

緩斜面が急になったと思ったところで、段差があり、その先が見えなくなった。石祠で出したストックは収めた。左の植林はここから激斜面になっている。こちらもそうかと思ったらまさにそうで、かなり急になっていて、つかまる樹もまばら。植林側も同じようなもの。もうここはあきらめてそのまま下る。
(左の滝は不死熊橋から見える小滝)

(ここがどうにも降りられない)

ジグザグに下って、真下に林道が見え、左には不死熊橋手前に置かれた根本山登山コースの看板が見えている。林道着地まで5mもないが、これがまた下りるに下りられない急斜面。手がかり足がかりもない。植林を看板側に回ると、ちょっとした擁壁になっていて戻る。ザックから5mの細引きを出そうとしたが、この長さでは2.5m分しか使えないか、捨てロープにするしかない。それではもったいない。さりとて、尻滑りで下れる傾斜ではない。ここもまたソロリソロリで、這っている木の根をつかみ、最後は滑り落ちてヤレヤレとなった。
(ここに出た。ここもまた、登りで使うにはさして苦労もするまい。下りでは四苦八苦だった)

見上げると、自分の危なげに下りたところには踏み跡が見えた。確かに、登る分には四つん這いにしても行けるだろうが、自分には下り使用はとてつもなく難儀。この踏み跡が破線路の正体か。
(駐車場に向かう)

(間伐の堆積)

駐車場に戻る。出発から3時間しか経っていない。えらく疲れた。出発時の車はそのまま。さらに一台の追加だ。エンジンを暖め、タバコを吸う。ここでいきなり便圧が高まった。実は十四丁からの危ういトラバースの途中でいきなり便意に見舞われたが、それどころではなかったのでこらえて収まり、以降は忘れていたが、ここに来ての再訪。どうせ三境林道は通行止めだ。そのガード下で落ち着いた。水筒の水で手を洗い、残り水は捨てた。
先日の金山レベルの短時間歩きで終わり。だが、自分のミスから発生させた十四丁からのトラバースと林道への下り立ちが今日の核心となってかなり疲れた。寄り道もなく沢コースで根本山、下りは中尾根コースのレギュラー歩きをしていれば、熊鷹山チョイも加えたろうが、大周回ができなかったところで、別に後悔はない。肝心の十七丁石祠を見て、さらにいろいろと想像できる墓碑も見たのだからそれで結構。
実はあわよくばと思っていたコースだが、熊鷹山から丸岩岳に行き、906m標高点から県境ルートで駐車地に戻ることを想定していた。丸岩岳から北西に下って石鴨林道に出たことはあった。今日、下り途中から丸岩岳に続く県境尾根の帯状地帯を見て、いずれ歩かねばなと思ってしまった。