◎2020年2月11日(火)
つくば市営駐車場(8:30)……小田休憩所(8:40)……常願寺コース合流(9:49)……宝篋山(9:58~10:18)……小田不動尊(11:18)……八幡宮鳥居(11:25)……駐車場(11:31)
水戸に用事があった。その用事だけで茨城まで行くのも何だし、ついでに軽いハイキングでもしようと、山渓の『茨城県の山』を見て、用事後の帰りに笠間の富士山と佐白山に寄ろうかと考えた。山渓本だけでは情報不足なので、ネットで調べる。すると、たまたま見た記事に、その方は勘違いをしていたのか、「佐白山は関東百名山に選ばれている。自分としてはむしろ宝篋山を押したいのだが」と書かれていた。関東百名山リストを改めて調べるまでもなく、むしろ宝篋山という山に興味を持った。山名からして宝篋印塔でもあるのだろう。つくば市の山だ。水戸からはかなり南になるが、佐白山よりも登りがいのある山だというのであれば、どんな山なのか興味も出てくる。ちなみに、この宝篋山は『日本山名事典』には載っていなかった。小田山、三村山とも呼ばれているらしいが、これらの名前でもまた事典にはない。やはり、山頂には鎌倉時代の宝篋印塔があって、富士山も望める。これだけはわかった。これだけでも登るに値する。宝篋山で決まりにした。
つくば市のHPで確認するといろんなコースがあった。短時間歩きだし、水戸の用事は山に登ってからゆっくり済ませばいいかと順序を逆にした。些細なことだが、つくば市のHPでは「宝篋山」と「宝鏡山」が同居している。ネットで調べても宝鏡山なんて山は全国どこにもない。宝境山はあった。地元の役所なのにいい加減なものだ。そのコーナーの担当者は宝篋印塔もわかっていないのだろう。
(小田休憩所の駐車場。手前にも同じほどの駐車地があって、ともに満車)
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高速利用で2時間以上かけて小田休憩所に到着。4/5ほどの区間が高速道だった。時刻はまだ8時15分を過ぎたばかりなのに、70台収容の駐車場はすでに満車。駐車スペースはない。次から次へと車がやって来ては戻る。ここの駐車場、事前調べでは、利用時間は9時からとなっていた。もしかしたら開いているかもと早めに来たが遅すぎた。刷り出してきたつくば市のパンフには「満車の場合は市営小田駐車場」にと付記されている。そんな駐車場、ハイキングマップには掲載されていない。国道を挟んだ反対側にPマークがある。そこだろうか。路肩に車を止めて、しばらく様子を窺うと、そちらの方からハイカーがどんどん歩いて来る。有料なら嫌だなと思いながら行ってみた。そこが市営駐車場だった。無料。ここも広い駐車場だ。半分は埋まっている。この宝篋山、そんなに人気の山なのか。もしくは何かイベントでもあるのか。花や紅葉の時期でもない。地元の金山、桐生の吾妻山やら足利の大小山どころではない人気ぶりだ。車のナンバーは、遠方はせいぜい自分の群馬が目立つ程度で、ほとんどが土浦、つくば、水戸。ちらりと宇都宮。とちぎなし。
今日のコースはパンフレットに記された「極楽寺コース」で登って「小田城コース」の下り。マップに記されたタイムは、小田休憩所を起点として上り1時間半、下り1時間20分で、自分の足にもかなりやさしそうだ。ゆっくり歩いても午前中に周回はできそうだが、こんなにハイカーが多い山なら、トレラン以外に追い抜かれるのは恥といった感じがしないでもなくなってくる。
車道を歩いて国道を信号待ちでわたる。市営駐車場には宝篋山登山口まで500mとあった。依然として満杯の駐車場に向かっては引き返す車が何台もいる。休憩所に着く。駐車場越しの山に電波塔が見えた。おそらく、あれが宝篋山の山頂だろう。険しい感じはまったくない。のんびりと歩けそうだ。左の休憩所に建物が見えたが、ハイカーで混んでいたので、そこに何があるのかは確認もしなかった。おそらくは、トイレとコース看板、自販機か小さな売店でもあるのだろう。
(宝篋山。電波塔が山頂。女性の立っているところを右に行くのが常願寺コース。直進が極楽寺コース)
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田園の中の風景で始まった。トラクターが動いている。のどかな景色の中にハイカーの姿はかなりいる。前を後姿ではオバチャンかネエチャンがわからない女性二人組が歩いている。
すぐにコースが分かれた。右は常願寺コース。直進は極楽寺コース。前者コース歩きの方が圧倒的に多く、前の二人もそちらに向かった。山頂までの時間は45分ほど余計にかかる。そちらでもよかったが、たかが知れた感じの滝の数が極楽寺コースの方が一つ多かった。極楽寺コースの標識の脇には、「三村山極楽寺五輪塔」の標識もある。ここで別名の三村山が出てくる。
(五輪塔)
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半舗装の道を行くと<極楽寺公園>。看板の頭に付いた「忍性記念」という文字が気になった。昔の受験知識で、忍性は、鎌倉時代の律宗の僧。地域活動をしながら布教に精を出した人物ということは知っている。「宝篋山整備隊」の解説板を読む。忍性はここに来て荒れた極楽寺を再建したとある。その極楽寺の跡形はどこにもなく、後に建立された五輪塔が脇道コースの傍らに残っているだけだ。最後は北常陸の佐竹氏に侵され、結城氏の食客の身分に落ちたとはいえ、ここは鎌倉から室町にかけて勢力を張った名門八田・小田氏の地であり、この山にもその城址や砦跡があるだろうとは思っていたが、忍性との関わりは知らなかった。小田氏の庇護もあったろう。話がくどくなりそうなのでこのあたりでやめておく。結果的に今回は自分好みな歴史歩きのコースでもあった。それでいてふれあい道でないのが不思議。そんなことは知らずに、簡単に歩けるコースとして選んだだけのことだったが。
ここで、脇道と記したが、五輪塔を見る前にかなり手前の脇道に入り込んでしまい、その先の荒地に五輪塔があるようにも思えず、しばらく先まで行って引き返している。後で知ったが、この荒地が極楽寺跡だった。この先、既成の極楽寺コースからはところどころで逸れて歩いているから、コースに迂回して戻ると、さっき追い越したジイサンをまた追い越して歩いたりしている。これを何度か繰り返す。
(鎌倉墓)
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(沢沿いの道)
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(慈悲の滝)
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(幸せのハート岩。ひねくれた気持ちではなく素直に受け入れるべきだろう)
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道端に団子状に積み重ねた丸石がいくつか続く。看板には「鎌倉墓」とある。寺があれば墓もあって当たり前だが、墓地がここにあったわけではあるまい。人為的にコース沿いに並べたのは想像に難くない。
道が沢沿いになった。そして滝。まずは<慈悲の滝>。まぁこんなものだろう。最初から期待はしていない。沢自体もサワガニがいそうな小沢だ。おそらく、普通の沢では小滝としても写真は撮らないような滝だ。続いて<幸せのハート岩>。石ではなく岩となっている。こんなのや滝が沢沿いの道に続く。一々記してもキリがないので、この先は写真で済ますことにする。
(五条の滝)
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(アップで)
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(こころの滝)
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(こころの橋。どこが? と思わないようにしよう)
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(白滝)
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(葵の滝)
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(ここから右に上がる)
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<こころの橋>で道は分岐し、新沢コースと山コースになり、先で合流するようになっている。ただ、ここまでも道は随分と分岐していて、自分の向かっている方向とは違うところから下って来る人も目に付いていた。ここは新沢コースを選ぶ。
滝を見たりして、登るというか歩いている感覚の方が強いが、やがて休憩スポットのようなところに着いた。丸太のベンチも置かれている。道はここから沢を離れそうだ。おそらく、先ほどの山コースとの合流点だろう。上がると、今度は純平コースなる道が横切っている。ハイキングマップを見ると、純平コースは常楽寺コースと小田城コースをつないでいる歩道で、極楽寺コースとは、この先、部分的に一緒になる。
(ワニ岩)
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(ニコニコ岩)
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(幅広の緩やかな道)
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(元禄コブシ)
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ここに岩が二つあって、ワニ岩とニコニコ岩。ワニ岩はなるほどと思えるが、ニコニコ岩はちょっと苦しい。見方によってはカニの甲羅のように怒っているようにも見える。いずれにせよ、無垢のままに名前を付けろと言われたら、十人十色の名前になるだろう。
また標識や案内板が出てくる。この先はコブシが有名なのか、宝篋コブシ、元禄コブシ、コブシ道とある。ここは分岐になっていて、宝篋コブシと元禄コブシの両方は見られない。宝篋コブシ方面は大岩群・極楽寺コースにもなっている。特に意味もなく元禄コブシの方を選んだ。
(常願寺コースに合流)
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(土塁。土手ともあるが、土手と土塁ではニュアンスが違う気がするが)
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(空堀跡)
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(反対側の空堀跡には堀切の文字が)
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(宝篋城跡となっていた)
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なぜに元禄コブシなのかわからぬままにゆっくり進んで行くと、山頂は間もなくといった雰囲気になる。広場になっていて、ベンチもある。ここは極楽寺コースと常願寺コースの合流ポイント。ここから城址が出てくる。土塁の標識があって、次は宝篋城空堀跡となる。宝篋城を調べると、宝篋山城とあったりもするが、南北朝時代の城だったらしい。南朝方の小田氏の城を攻めるために北朝側の高師冬が築いた城とのことで、ここで合戦もあったようだ。
(電波塔が見えて)
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(山頂の宝篋印塔)
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(印塔の図柄)
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(三角点)
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(石碑もあった)
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宝篋城跡を抜けると、すぐそこに電波塔が見え、ハイカーの姿も多くなってきた。常願寺コースとはすでに合流している。
山頂で目に付いたのは宝篋印塔だ。日高の日和田山にもあったが、あれは時代的には江戸の享保。ここの宝篋印塔は鎌倉時代とのことだから、それよりも四百年以上は遡る。ついでに三角点を探した。印塔と同じ敷地の中にあった。
(まずは筑波山)
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(霞ヶ浦)
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(富士山)
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(アップ)
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(日光方面だが、肉眼よりもカメラの方が見えていない)
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ここの山頂からの眺めは良い。間近に筑波山。そして霞ヶ浦、日光連山。富士山も東京の高層ビル群も見えてはいるが霞んでいる。ここに城やら物見台があれば、攻めて来る敵の動きもしっかりととらえられるだろう。金山城のロケーションと同じだ。かろうじて空いているベンチに腰かけて菓子パンを食べながら休む。こうハイカーが多いと、タバコは遠慮しなけりゃならないが、堂々と吸っている御仁がいた。自分は我慢した。ちょっと残念なことがある。山頂には子供をおんぶした銅像がちらりと見えた。あまり興味もないので見にはいかなかったが、その像は、忍性像だったことを後で知った。忍性生誕八百年を記念して建立したようだ。
(帰りの小田城コースは右の道)
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(登りの道よりは狭くなった。利用ハイカーが少ないのだろう)
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ゆっくりした。富士山が見えれば自然にそうなる。では下りましょう。こういう山は地図もコンパスも要らない。ハイキングマップだけで十分。あるいは、コース名が入った標識だけでも事足りる。それはそれで面白みもないが、少なくとも道を間違えて長い車道歩きになる羽目にはならないで済む。早速、小田城コースが分岐した。登りの際に山頂近くの広場にトイレがあったが、あれはバイオトイレだったようだ。ご丁寧に標識にも記されている。
しばらくは何もない陽だまりのハイキング道。傾斜は緩やか。登りでもそう思ったが、この山の歩きでゼーゼーとヘタれていたら、吾妻山も大小山も、金山ですら登れないだろう。
分岐の標識が現れた。<山口コース2 大池公園>。マップを見ると、正確には「北条大池」とある。<山口コース1>の方は山頂から北に下って<2>に合流する。この大池の「北条」が気になった。北条氏と関係がありそうだが、執権の北条氏なのか後北条氏なのかは時代的に微妙。帰ってから調べると、由来の説明はない。ただ、この地は多気氏が城を築いて地名も多気だったのが、攻略した八田氏が小田城を築いた際に北条という地名にしたらしいことだけはわかった。これでは北条氏との関係はわからないまま。想定できることは、八田氏が鎌倉時代初頭に大掾氏系の多気氏を追い出し、下野の地頭から常陸のこの地の守護として移封できたのは、北条氏のバックアップまたは武力の協力があったればこそだろう。一種の御礼としての地名変更かもしれない。北条の地名は後世にも続き、一時、常陸北条藩があったようだ。気ままな想像だ。
(鳥居があって)
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(ちっぽけな下浅間神社の碑)
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(展望地から)
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(スカイツリーが見える)
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先に鳥居が見えて、街を見下ろす展望地に出た。富士山はすでに隠れ、野焼きの煙が幾筋か上がっている。岩の下にしめ縄に巻かれた石碑があり、その前に「下浅間神社」の賽銭箱がある。石碑には何枚かのお札があり、中に那智山青岸渡寺の札があるのには恐れ入る。この下浅間神社、ここは奥社的な存在だろうが、本殿は町の中にでもあるのだろうか。これもまた後で調べたが、下浅間神社は富士吉田にはあってもつくばにはない。
トレラングループに先を譲る歩きが加わる。かろうじて、ここまで、大勢のハイカーがいた割りには追い越しも追いつかれもない。これもまた珍しい。
(硯石)
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どれがそうなのか<硯石>。硯石なら雨畑石とか雄勝石が有名だが、これが粘板岩なのか。たまたま粘板岩が剥き出しになっているから硯石とでもしたのか。これも勝手な解釈。
七曲が終わると、純平歩道がクロスして、ここで終わっている。標識に合わせて<コース入口 1.3km>の方に向かう。歩道は静かになり、たまに登りのハイカーを見かける。今日の自分の選んだ極楽寺、小田城コースはマイナーなコースのようだ。あれだけ駐車場がいっぱいなのに行き交うハイカーが少ない。
(富岡山頂は右)
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(石祠が置かれ)
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(富岡山頂)
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ここで道が分岐して、ここはストレートに左だが、図版看板に直進迂回で<富岡山頂(展望所)>というのがある。そこに寄ることにするが、ハイキングマップではここに戻るようになっている。図版では先も行ける。
展望所には石祠があり、ベンチもある。だれもいないので一服つけた。気分が良い。街並みと奥に高層ビル。ここも物見台だったのだろうか。二人連れがやって来て、少し景色を眺めて、迂回の道もあるのに、女の方が、どこに行くのかわからないからと、さっさと戻って行った。やはり、宝篋山はこの手のレベルの山なのだろうが、自分はここまでそれなりに楽しんで歩いている。賑わいの山をひっそりしたコースを歩けただけでも満足でいる。『のんびり夫婦の山遊び』さんのコーナーでは、ここの紅葉も紹介しているが、こじんまりとしてはいるものの捨てがたい紅葉を楽しめるようだ。
(小田城コースに迂回戻り)
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(舟が城跡展望所)
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小田城コースに復帰。そのまま標識のままに下ればよかったろうが、小田城コースは<中世城の道>に名前が変わり、分岐があって横道は<舟が城跡展望所>とあったのでそちらに行ってみる。ただの展望地だったが、ここにも物見があったのかもしれない。迂回道があったので中世城の道に復帰。確かに堀跡と思しき窪地がいくつか尾根を縦断していて、先日の竜ヶ井城とはまったく違う、まさに中世の城址だ。
(小田不動堂への道。ここの踏み跡は薄い)
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トレッキングマップでのコースは基本的に「常願寺コース」、「極楽寺コース」、「小田城コース」、「山口コース1」、「山口コース2」で、その間を「純平歩道」がつないだ形になってはいるが、実際には脇道ルートが結構ある。ここでも<小田不動堂>なる標識を見かけたのでそちらに下る。もう、真下に街並みが見える高さになっている。
(不動堂)
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(おそらくご本尊はあの中に)
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(下のお不動像)
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沢というよりも、明らかに堀切のようなところを下って行くと不動尊の石碑があって、これは文字も何も確認できなかったが、上に不動様のお堂がある。これはトタン張りのお粗末なもの。看板を読むと「磨崖不動明王立像」とある。十二世紀前半とあるから、鎌倉幕府になる平安末期。磨崖とあるからには岩壁に彫られた仏像と思い、お堂の後ろに回ると、大きな岩の間に窓状に掘削した穴が見え、そこにはスダレが垂れていた。脇にはクサリがある。見たけりゃ、ここを上がれということだろうが、
(南無大師遍照金剛像)
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(石仏、石碑群)
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そこまでの執心もないのでやめにしたが、あそこに磨崖不動明王立像があるのだろう。
もう終わりだなと石段を下ると、お堂がまたあって、「南無大師遍照金剛」の木像が収められている。いつの時代のものかは知らないが、周囲には寛政や寛保の頃の石仏が並んでいる。周囲に解説板はない。南無大師遍照金剛とは弘法大師に帰依するという意味らしい。今となっては記憶も定かでないし、写真に撮ってもいなかったが、この先で一遍の名前が記された解説板を見た記憶が残っている。通りすがりだったので深読みもしなかったが、この地に一遍が来ていたのだろうか。これも後で調べたことだが、つくば市には時宗の寺が多い。前述の北条の地区にも無量院という古い寺がある。ここまで記して、自分が一体、何を言いたいのかわからなくなった。つまりは、今はともかく、仏教が盛んな地だったということ。宝篋山そのものが仏教に関わる遺物だらけだった。
ところで、時代的に一遍と忍性の布教活動はほぼ同時期のようだ。一遍がこの地で踊り念仏をやっていたとしたら、忍性の活動とバッティングしていたのかもしれない。近現代史ならともかく、古代から中世にかけては詳しくもないので、ここも勝手な想像にしておく。
(八幡宮の鳥居。ここにも車を置けるようだ。鳥居だけ見て神社には行かなかった)
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(駐車場に向かう途中で)
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(市営駐車場に到着)
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下って行くと、右手に八幡宮の鳥居と奥に神社がちらりと見えた。ここで神社に寄ってもいいが、歴史歩きはこの辺でもうよいだろう。とにかく、宝篋山は歴史の宝庫であることはよくわかった。町の中に入って、県道をわたる。住宅地の路地をぬけると駐車場に着いた。
予定通りの3時間歩き。中味が充実していたわりにはあっけない歩きだった。むしろ歩き足りないくらいだ。途中で暖かくて上着も脱いだが、決して、歩いて汗をかいたわけではない。自分からしてみて、こんな山でも、知ることが多くて楽しめた。出来るなら、お仕着せのコースをすべて歩いてみたいもの。ただ、どこを歩いても3時間程度だ。家から往復4時間かけて、帰路を一般道にすれば5時間はかかるか。それを考慮すれば、今回で宝篋山の雰囲気はわかったから、これで十分なのかなと思ったりもする。
(今日の目当て)
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(そのチラシ表)
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(チラシ裏面)
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水戸に出向いた用事は茨城県立歴史館での『佐竹展』だった。「800年の歴史と文化」というサブタイトルになってはいたが、秋田に移封されてからの250年はほとんど年譜の箇条書きで終わらせていた。後援として秋田県、秋田市、秋田魁新報社も並んでいたが、秋田県人としては少々がっかりの内容だったし、雑多な感じがした。もっとも、茨城県民からしてみれば、秋田に飛ばされてからのことはどうでもいいことだ。これで十分かもしれない。
開催期間中の3月8日に、秋田移封後の佐竹氏に関しての講演会があるようだが、早く見たくて早々に行った。改めて講演会に行くつもりはない。年譜で阿仁銅山が三か所ほどに出ていたことがうれしくて、つい二千円也の図録まで買ってしまった。単純なものだ。それでいて、図録はそのままに開いてもいない。
そもそも、水戸と佐竹氏との関係は薄い。本来、佐竹氏の地盤は常陸太田で、秀吉の北条攻めに加わって水戸の地を得たが、在城したのは10年もなく、家康に石高も1/3に減らされて辺地に転封になった。立場的に曖昧だったから助かったし、はっきりと景勝や三成に付いていたら取りつぶしだったろう。
宝篋山を登った後での佐竹展だった。小田氏が南北朝の戦い、後北条氏の侵入等で時代の流れに翻弄され、あっちに付いたりこっちに付いたりしたのに比べ、佐竹氏は基本的に関東管領の上杉氏側に立っていた。そのために800年も継承できたわけだ。立場をあいまいにしては長らえる。そして減俸され、左遷されてもそれに従う。きわめて日本人的だ。それなりの殿様だったわけだ。気骨がないのではそんなものだろう。
図録を買ったばかりに帰路は高速を使わずにずっと50号で帰ったが、やはり3時間以上かかってしまった。
(本日の軌跡)
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「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)、数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)、数値地図50mメッシュ(標高)及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24情使、 第921号)」
つくば市営駐車場(8:30)……小田休憩所(8:40)……常願寺コース合流(9:49)……宝篋山(9:58~10:18)……小田不動尊(11:18)……八幡宮鳥居(11:25)……駐車場(11:31)
水戸に用事があった。その用事だけで茨城まで行くのも何だし、ついでに軽いハイキングでもしようと、山渓の『茨城県の山』を見て、用事後の帰りに笠間の富士山と佐白山に寄ろうかと考えた。山渓本だけでは情報不足なので、ネットで調べる。すると、たまたま見た記事に、その方は勘違いをしていたのか、「佐白山は関東百名山に選ばれている。自分としてはむしろ宝篋山を押したいのだが」と書かれていた。関東百名山リストを改めて調べるまでもなく、むしろ宝篋山という山に興味を持った。山名からして宝篋印塔でもあるのだろう。つくば市の山だ。水戸からはかなり南になるが、佐白山よりも登りがいのある山だというのであれば、どんな山なのか興味も出てくる。ちなみに、この宝篋山は『日本山名事典』には載っていなかった。小田山、三村山とも呼ばれているらしいが、これらの名前でもまた事典にはない。やはり、山頂には鎌倉時代の宝篋印塔があって、富士山も望める。これだけはわかった。これだけでも登るに値する。宝篋山で決まりにした。
つくば市のHPで確認するといろんなコースがあった。短時間歩きだし、水戸の用事は山に登ってからゆっくり済ませばいいかと順序を逆にした。些細なことだが、つくば市のHPでは「宝篋山」と「宝鏡山」が同居している。ネットで調べても宝鏡山なんて山は全国どこにもない。宝境山はあった。地元の役所なのにいい加減なものだ。そのコーナーの担当者は宝篋印塔もわかっていないのだろう。
(小田休憩所の駐車場。手前にも同じほどの駐車地があって、ともに満車)

高速利用で2時間以上かけて小田休憩所に到着。4/5ほどの区間が高速道だった。時刻はまだ8時15分を過ぎたばかりなのに、70台収容の駐車場はすでに満車。駐車スペースはない。次から次へと車がやって来ては戻る。ここの駐車場、事前調べでは、利用時間は9時からとなっていた。もしかしたら開いているかもと早めに来たが遅すぎた。刷り出してきたつくば市のパンフには「満車の場合は市営小田駐車場」にと付記されている。そんな駐車場、ハイキングマップには掲載されていない。国道を挟んだ反対側にPマークがある。そこだろうか。路肩に車を止めて、しばらく様子を窺うと、そちらの方からハイカーがどんどん歩いて来る。有料なら嫌だなと思いながら行ってみた。そこが市営駐車場だった。無料。ここも広い駐車場だ。半分は埋まっている。この宝篋山、そんなに人気の山なのか。もしくは何かイベントでもあるのか。花や紅葉の時期でもない。地元の金山、桐生の吾妻山やら足利の大小山どころではない人気ぶりだ。車のナンバーは、遠方はせいぜい自分の群馬が目立つ程度で、ほとんどが土浦、つくば、水戸。ちらりと宇都宮。とちぎなし。
今日のコースはパンフレットに記された「極楽寺コース」で登って「小田城コース」の下り。マップに記されたタイムは、小田休憩所を起点として上り1時間半、下り1時間20分で、自分の足にもかなりやさしそうだ。ゆっくり歩いても午前中に周回はできそうだが、こんなにハイカーが多い山なら、トレラン以外に追い抜かれるのは恥といった感じがしないでもなくなってくる。
車道を歩いて国道を信号待ちでわたる。市営駐車場には宝篋山登山口まで500mとあった。依然として満杯の駐車場に向かっては引き返す車が何台もいる。休憩所に着く。駐車場越しの山に電波塔が見えた。おそらく、あれが宝篋山の山頂だろう。険しい感じはまったくない。のんびりと歩けそうだ。左の休憩所に建物が見えたが、ハイカーで混んでいたので、そこに何があるのかは確認もしなかった。おそらくは、トイレとコース看板、自販機か小さな売店でもあるのだろう。
(宝篋山。電波塔が山頂。女性の立っているところを右に行くのが常願寺コース。直進が極楽寺コース)

田園の中の風景で始まった。トラクターが動いている。のどかな景色の中にハイカーの姿はかなりいる。前を後姿ではオバチャンかネエチャンがわからない女性二人組が歩いている。
すぐにコースが分かれた。右は常願寺コース。直進は極楽寺コース。前者コース歩きの方が圧倒的に多く、前の二人もそちらに向かった。山頂までの時間は45分ほど余計にかかる。そちらでもよかったが、たかが知れた感じの滝の数が極楽寺コースの方が一つ多かった。極楽寺コースの標識の脇には、「三村山極楽寺五輪塔」の標識もある。ここで別名の三村山が出てくる。
(五輪塔)

半舗装の道を行くと<極楽寺公園>。看板の頭に付いた「忍性記念」という文字が気になった。昔の受験知識で、忍性は、鎌倉時代の律宗の僧。地域活動をしながら布教に精を出した人物ということは知っている。「宝篋山整備隊」の解説板を読む。忍性はここに来て荒れた極楽寺を再建したとある。その極楽寺の跡形はどこにもなく、後に建立された五輪塔が脇道コースの傍らに残っているだけだ。最後は北常陸の佐竹氏に侵され、結城氏の食客の身分に落ちたとはいえ、ここは鎌倉から室町にかけて勢力を張った名門八田・小田氏の地であり、この山にもその城址や砦跡があるだろうとは思っていたが、忍性との関わりは知らなかった。小田氏の庇護もあったろう。話がくどくなりそうなのでこのあたりでやめておく。結果的に今回は自分好みな歴史歩きのコースでもあった。それでいてふれあい道でないのが不思議。そんなことは知らずに、簡単に歩けるコースとして選んだだけのことだったが。
ここで、脇道と記したが、五輪塔を見る前にかなり手前の脇道に入り込んでしまい、その先の荒地に五輪塔があるようにも思えず、しばらく先まで行って引き返している。後で知ったが、この荒地が極楽寺跡だった。この先、既成の極楽寺コースからはところどころで逸れて歩いているから、コースに迂回して戻ると、さっき追い越したジイサンをまた追い越して歩いたりしている。これを何度か繰り返す。
(鎌倉墓)

(沢沿いの道)

(慈悲の滝)

(幸せのハート岩。ひねくれた気持ちではなく素直に受け入れるべきだろう)

道端に団子状に積み重ねた丸石がいくつか続く。看板には「鎌倉墓」とある。寺があれば墓もあって当たり前だが、墓地がここにあったわけではあるまい。人為的にコース沿いに並べたのは想像に難くない。
道が沢沿いになった。そして滝。まずは<慈悲の滝>。まぁこんなものだろう。最初から期待はしていない。沢自体もサワガニがいそうな小沢だ。おそらく、普通の沢では小滝としても写真は撮らないような滝だ。続いて<幸せのハート岩>。石ではなく岩となっている。こんなのや滝が沢沿いの道に続く。一々記してもキリがないので、この先は写真で済ますことにする。
(五条の滝)

(アップで)

(こころの滝)

(こころの橋。どこが? と思わないようにしよう)

(白滝)

(葵の滝)

(ここから右に上がる)

<こころの橋>で道は分岐し、新沢コースと山コースになり、先で合流するようになっている。ただ、ここまでも道は随分と分岐していて、自分の向かっている方向とは違うところから下って来る人も目に付いていた。ここは新沢コースを選ぶ。
滝を見たりして、登るというか歩いている感覚の方が強いが、やがて休憩スポットのようなところに着いた。丸太のベンチも置かれている。道はここから沢を離れそうだ。おそらく、先ほどの山コースとの合流点だろう。上がると、今度は純平コースなる道が横切っている。ハイキングマップを見ると、純平コースは常楽寺コースと小田城コースをつないでいる歩道で、極楽寺コースとは、この先、部分的に一緒になる。
(ワニ岩)

(ニコニコ岩)

(幅広の緩やかな道)

(元禄コブシ)

ここに岩が二つあって、ワニ岩とニコニコ岩。ワニ岩はなるほどと思えるが、ニコニコ岩はちょっと苦しい。見方によってはカニの甲羅のように怒っているようにも見える。いずれにせよ、無垢のままに名前を付けろと言われたら、十人十色の名前になるだろう。
また標識や案内板が出てくる。この先はコブシが有名なのか、宝篋コブシ、元禄コブシ、コブシ道とある。ここは分岐になっていて、宝篋コブシと元禄コブシの両方は見られない。宝篋コブシ方面は大岩群・極楽寺コースにもなっている。特に意味もなく元禄コブシの方を選んだ。
(常願寺コースに合流)

(土塁。土手ともあるが、土手と土塁ではニュアンスが違う気がするが)

(空堀跡)

(反対側の空堀跡には堀切の文字が)

(宝篋城跡となっていた)

なぜに元禄コブシなのかわからぬままにゆっくり進んで行くと、山頂は間もなくといった雰囲気になる。広場になっていて、ベンチもある。ここは極楽寺コースと常願寺コースの合流ポイント。ここから城址が出てくる。土塁の標識があって、次は宝篋城空堀跡となる。宝篋城を調べると、宝篋山城とあったりもするが、南北朝時代の城だったらしい。南朝方の小田氏の城を攻めるために北朝側の高師冬が築いた城とのことで、ここで合戦もあったようだ。
(電波塔が見えて)

(山頂の宝篋印塔)

(印塔の図柄)

(三角点)

(石碑もあった)

宝篋城跡を抜けると、すぐそこに電波塔が見え、ハイカーの姿も多くなってきた。常願寺コースとはすでに合流している。
山頂で目に付いたのは宝篋印塔だ。日高の日和田山にもあったが、あれは時代的には江戸の享保。ここの宝篋印塔は鎌倉時代とのことだから、それよりも四百年以上は遡る。ついでに三角点を探した。印塔と同じ敷地の中にあった。
(まずは筑波山)

(霞ヶ浦)

(富士山)

(アップ)

(日光方面だが、肉眼よりもカメラの方が見えていない)

ここの山頂からの眺めは良い。間近に筑波山。そして霞ヶ浦、日光連山。富士山も東京の高層ビル群も見えてはいるが霞んでいる。ここに城やら物見台があれば、攻めて来る敵の動きもしっかりととらえられるだろう。金山城のロケーションと同じだ。かろうじて空いているベンチに腰かけて菓子パンを食べながら休む。こうハイカーが多いと、タバコは遠慮しなけりゃならないが、堂々と吸っている御仁がいた。自分は我慢した。ちょっと残念なことがある。山頂には子供をおんぶした銅像がちらりと見えた。あまり興味もないので見にはいかなかったが、その像は、忍性像だったことを後で知った。忍性生誕八百年を記念して建立したようだ。
(帰りの小田城コースは右の道)

(登りの道よりは狭くなった。利用ハイカーが少ないのだろう)

ゆっくりした。富士山が見えれば自然にそうなる。では下りましょう。こういう山は地図もコンパスも要らない。ハイキングマップだけで十分。あるいは、コース名が入った標識だけでも事足りる。それはそれで面白みもないが、少なくとも道を間違えて長い車道歩きになる羽目にはならないで済む。早速、小田城コースが分岐した。登りの際に山頂近くの広場にトイレがあったが、あれはバイオトイレだったようだ。ご丁寧に標識にも記されている。
しばらくは何もない陽だまりのハイキング道。傾斜は緩やか。登りでもそう思ったが、この山の歩きでゼーゼーとヘタれていたら、吾妻山も大小山も、金山ですら登れないだろう。
分岐の標識が現れた。<山口コース2 大池公園>。マップを見ると、正確には「北条大池」とある。<山口コース1>の方は山頂から北に下って<2>に合流する。この大池の「北条」が気になった。北条氏と関係がありそうだが、執権の北条氏なのか後北条氏なのかは時代的に微妙。帰ってから調べると、由来の説明はない。ただ、この地は多気氏が城を築いて地名も多気だったのが、攻略した八田氏が小田城を築いた際に北条という地名にしたらしいことだけはわかった。これでは北条氏との関係はわからないまま。想定できることは、八田氏が鎌倉時代初頭に大掾氏系の多気氏を追い出し、下野の地頭から常陸のこの地の守護として移封できたのは、北条氏のバックアップまたは武力の協力があったればこそだろう。一種の御礼としての地名変更かもしれない。北条の地名は後世にも続き、一時、常陸北条藩があったようだ。気ままな想像だ。
(鳥居があって)

(ちっぽけな下浅間神社の碑)

(展望地から)

(スカイツリーが見える)

先に鳥居が見えて、街を見下ろす展望地に出た。富士山はすでに隠れ、野焼きの煙が幾筋か上がっている。岩の下にしめ縄に巻かれた石碑があり、その前に「下浅間神社」の賽銭箱がある。石碑には何枚かのお札があり、中に那智山青岸渡寺の札があるのには恐れ入る。この下浅間神社、ここは奥社的な存在だろうが、本殿は町の中にでもあるのだろうか。これもまた後で調べたが、下浅間神社は富士吉田にはあってもつくばにはない。
トレラングループに先を譲る歩きが加わる。かろうじて、ここまで、大勢のハイカーがいた割りには追い越しも追いつかれもない。これもまた珍しい。
(硯石)

どれがそうなのか<硯石>。硯石なら雨畑石とか雄勝石が有名だが、これが粘板岩なのか。たまたま粘板岩が剥き出しになっているから硯石とでもしたのか。これも勝手な解釈。
七曲が終わると、純平歩道がクロスして、ここで終わっている。標識に合わせて<コース入口 1.3km>の方に向かう。歩道は静かになり、たまに登りのハイカーを見かける。今日の自分の選んだ極楽寺、小田城コースはマイナーなコースのようだ。あれだけ駐車場がいっぱいなのに行き交うハイカーが少ない。
(富岡山頂は右)

(石祠が置かれ)

(富岡山頂)

ここで道が分岐して、ここはストレートに左だが、図版看板に直進迂回で<富岡山頂(展望所)>というのがある。そこに寄ることにするが、ハイキングマップではここに戻るようになっている。図版では先も行ける。
展望所には石祠があり、ベンチもある。だれもいないので一服つけた。気分が良い。街並みと奥に高層ビル。ここも物見台だったのだろうか。二人連れがやって来て、少し景色を眺めて、迂回の道もあるのに、女の方が、どこに行くのかわからないからと、さっさと戻って行った。やはり、宝篋山はこの手のレベルの山なのだろうが、自分はここまでそれなりに楽しんで歩いている。賑わいの山をひっそりしたコースを歩けただけでも満足でいる。『のんびり夫婦の山遊び』さんのコーナーでは、ここの紅葉も紹介しているが、こじんまりとしてはいるものの捨てがたい紅葉を楽しめるようだ。
(小田城コースに迂回戻り)

(舟が城跡展望所)

小田城コースに復帰。そのまま標識のままに下ればよかったろうが、小田城コースは<中世城の道>に名前が変わり、分岐があって横道は<舟が城跡展望所>とあったのでそちらに行ってみる。ただの展望地だったが、ここにも物見があったのかもしれない。迂回道があったので中世城の道に復帰。確かに堀跡と思しき窪地がいくつか尾根を縦断していて、先日の竜ヶ井城とはまったく違う、まさに中世の城址だ。
(小田不動堂への道。ここの踏み跡は薄い)

トレッキングマップでのコースは基本的に「常願寺コース」、「極楽寺コース」、「小田城コース」、「山口コース1」、「山口コース2」で、その間を「純平歩道」がつないだ形になってはいるが、実際には脇道ルートが結構ある。ここでも<小田不動堂>なる標識を見かけたのでそちらに下る。もう、真下に街並みが見える高さになっている。
(不動堂)

(おそらくご本尊はあの中に)

(下のお不動像)

沢というよりも、明らかに堀切のようなところを下って行くと不動尊の石碑があって、これは文字も何も確認できなかったが、上に不動様のお堂がある。これはトタン張りのお粗末なもの。看板を読むと「磨崖不動明王立像」とある。十二世紀前半とあるから、鎌倉幕府になる平安末期。磨崖とあるからには岩壁に彫られた仏像と思い、お堂の後ろに回ると、大きな岩の間に窓状に掘削した穴が見え、そこにはスダレが垂れていた。脇にはクサリがある。見たけりゃ、ここを上がれということだろうが、
(南無大師遍照金剛像)

(石仏、石碑群)

そこまでの執心もないのでやめにしたが、あそこに磨崖不動明王立像があるのだろう。
もう終わりだなと石段を下ると、お堂がまたあって、「南無大師遍照金剛」の木像が収められている。いつの時代のものかは知らないが、周囲には寛政や寛保の頃の石仏が並んでいる。周囲に解説板はない。南無大師遍照金剛とは弘法大師に帰依するという意味らしい。今となっては記憶も定かでないし、写真に撮ってもいなかったが、この先で一遍の名前が記された解説板を見た記憶が残っている。通りすがりだったので深読みもしなかったが、この地に一遍が来ていたのだろうか。これも後で調べたことだが、つくば市には時宗の寺が多い。前述の北条の地区にも無量院という古い寺がある。ここまで記して、自分が一体、何を言いたいのかわからなくなった。つまりは、今はともかく、仏教が盛んな地だったということ。宝篋山そのものが仏教に関わる遺物だらけだった。
ところで、時代的に一遍と忍性の布教活動はほぼ同時期のようだ。一遍がこの地で踊り念仏をやっていたとしたら、忍性の活動とバッティングしていたのかもしれない。近現代史ならともかく、古代から中世にかけては詳しくもないので、ここも勝手な想像にしておく。
(八幡宮の鳥居。ここにも車を置けるようだ。鳥居だけ見て神社には行かなかった)

(駐車場に向かう途中で)

(市営駐車場に到着)

下って行くと、右手に八幡宮の鳥居と奥に神社がちらりと見えた。ここで神社に寄ってもいいが、歴史歩きはこの辺でもうよいだろう。とにかく、宝篋山は歴史の宝庫であることはよくわかった。町の中に入って、県道をわたる。住宅地の路地をぬけると駐車場に着いた。
予定通りの3時間歩き。中味が充実していたわりにはあっけない歩きだった。むしろ歩き足りないくらいだ。途中で暖かくて上着も脱いだが、決して、歩いて汗をかいたわけではない。自分からしてみて、こんな山でも、知ることが多くて楽しめた。出来るなら、お仕着せのコースをすべて歩いてみたいもの。ただ、どこを歩いても3時間程度だ。家から往復4時間かけて、帰路を一般道にすれば5時間はかかるか。それを考慮すれば、今回で宝篋山の雰囲気はわかったから、これで十分なのかなと思ったりもする。
(今日の目当て)

(そのチラシ表)

(チラシ裏面)

水戸に出向いた用事は茨城県立歴史館での『佐竹展』だった。「800年の歴史と文化」というサブタイトルになってはいたが、秋田に移封されてからの250年はほとんど年譜の箇条書きで終わらせていた。後援として秋田県、秋田市、秋田魁新報社も並んでいたが、秋田県人としては少々がっかりの内容だったし、雑多な感じがした。もっとも、茨城県民からしてみれば、秋田に飛ばされてからのことはどうでもいいことだ。これで十分かもしれない。
開催期間中の3月8日に、秋田移封後の佐竹氏に関しての講演会があるようだが、早く見たくて早々に行った。改めて講演会に行くつもりはない。年譜で阿仁銅山が三か所ほどに出ていたことがうれしくて、つい二千円也の図録まで買ってしまった。単純なものだ。それでいて、図録はそのままに開いてもいない。
そもそも、水戸と佐竹氏との関係は薄い。本来、佐竹氏の地盤は常陸太田で、秀吉の北条攻めに加わって水戸の地を得たが、在城したのは10年もなく、家康に石高も1/3に減らされて辺地に転封になった。立場的に曖昧だったから助かったし、はっきりと景勝や三成に付いていたら取りつぶしだったろう。
宝篋山を登った後での佐竹展だった。小田氏が南北朝の戦い、後北条氏の侵入等で時代の流れに翻弄され、あっちに付いたりこっちに付いたりしたのに比べ、佐竹氏は基本的に関東管領の上杉氏側に立っていた。そのために800年も継承できたわけだ。立場をあいまいにしては長らえる。そして減俸され、左遷されてもそれに従う。きわめて日本人的だ。それなりの殿様だったわけだ。気骨がないのではそんなものだろう。
図録を買ったばかりに帰路は高速を使わずにずっと50号で帰ったが、やはり3時間以上かかってしまった。
(本日の軌跡)

「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)、数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)、数値地図50mメッシュ(標高)及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24情使、 第921号)」