◎2020年11月22日(日)
ここのところずっとそうだが、今回もまたたいした歩きはしていない。敢えて記事にすることでもないが、少しは興味がある方もいるかなと思ったりして。
当初の予定は碓氷川七滝めぐりだった。七滝とはいっても小滝の連瀑で、七滝のある沢の区間は碓氷川の碓氷湖(坂本ダム)への注ぎ口から上流のめがね橋までとかなり短い。その上流となると、自分一人で行くには無理がありそうだ。その短い区間にナメが続き、それぞれの小滝もまた見ごたえがあるらしい。暑い時期に行きたかったが、妙義周辺はヤマビルの巣窟だ。11月になってしまった。忘れかけていたのを思い出したのは18日付けの毎日新聞ローカル版の記事を見てのことで、写真付きの見出しには「めがね橋と紅葉 競演 安中」とあった。
(碓氷湖)
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沢歩きだけだったら、おそらくは一時間もあれば済むだろう。ついでに歩けるところはないか。件の記事には<廃線ウォーク>を楽しめるとある。おそらく、<アプトの道>のことかとは思うが、これに湖畔の周回を加えたとしても、敢えて歩きたい気分にはならない。まして、新聞記事の四日後なら、紅葉は確実に終わっている。他にないかと地図を広げると、山中を歩く旧中山道があった。中山道六十九次としては坂本宿と次の軽井沢宿の区間の一部で、その間に碓氷峠がある。碓氷湖から少し戻ったところに入口があり、刎石山を経由する。そのままずっと行けば、軽井沢の熊野神社に至るが、そこまで行ったら、七滝めぐりの時間はなくなる。地図を見れば、途中に南下してめがね橋の先に下る破線路があった。これを下って帰りがけに七滝めぐりを楽しむ。これを本日の歩き予定にした。ここで余談だが、途中で通過する刎石山。「刎ねる」は首を刀で切り落とす以外の意味はない(と思う)。それなりのいわれが地名として残ったのだろうが、不吉な感じに興味津々といったところがある。
ここでちょっとした問題が出た。沢歩きする際の沢靴。ザックはデイパックにしたため、沢靴を入れると、パンパンになって、空きスペースに余裕がなくなった。一旦、旧道歩きから戻って、沢靴に履き替えて再出発してもたいした距離ではない。その時はそう思い、そうしようと、沢靴は車に置き、地下タビを履いて碓氷湖駐車場を出発した。8時30分。
(旧中山道入口。右上に東屋の屋根)
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(確かに、さも古道)
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旧国道18号線を上り方向に少し歩くと、左手にバス停風の東屋がある。ここが旧中山道の入口だ。看板を読んで、<上州路碓氷とうげのみち>の名称であることを知ったが、甲冑やらで変装してマラソンをする大会をテレビで見たことがある。そのコースがここだったか。正確には、安政遠足マラソンというらしい。なぜに安政としたかは看板には書かれていない。ふれあい道ではないようだ。後で知ったが、安中藩主が安政年間に始めたのがきっかけらしい。
看板には「文化財」として、見所がずらりと並んでいる。後でポイントをチェックすると「弘法の井戸」も含めていくつか見逃してしまったようだ。
中に入る。こう表現をしたのは、古道というのはこんなもので、薄暗い林の中の小道を歩くものと思っていたし、現に、道は杉と檜の混じった林に吸収されていた。それに抵抗を何とも感じなかったのは、どうせ時間つぶしだし、期待はしていないという思いが当初からあったからだろう。
(番所の石垣?)
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(薄暗いところからは抜け出した)
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そのうちに杉だけの林になった。植林なのかどうかはわからない。雑然と植えられ、間伐も見かけない。そんなところに、さっそく文化財。堂峰番所。説明板を読むと番所があったところらしく、確かにそれらしき石積みが残っている。この辺は狭い回廊状になっている。薄暗いからちょっと気が滅入る。
この先で徐々に低い谷間の風景から抜け出していく。すっきりした展望はないが、右手から陽光が入り、北側の山並みが覗く。
(柱状節理)
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続いて「柱状節理」。これは自然の造形だから文化財とはいえまい。この先の文化財を一々、書いていたらきりがないのでこの先は端折ることにするが、おそらくは見た物すべてを記すことになるだろう。この古道に興味があれば歩いてみるのもいい。息苦しく感じるのは最初のうちだけだ。
(こんなのがあると古道歩きも楽しくなる)
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気づいたら、からっとした明るい中の歩きになっていて、周囲は道幅の広い疎林というよりも、疎らに樹がある程度になっていた。ここまで、もしかして、番所があったから、わざと道を狭くしていたのかもしれない。早速、お気に入りの古道らしき置物が目に付いた。石碑が5~6基。南無阿弥陀仏やら大日尊と彫られていて、年代は文政やら天保。草書で彫られているのもあるが、こちらは何と読むのか。これがあるから古道という感じにはなるが、何だか、古道ムードは薄らぎ、一般道になってしまった感じがしないでもない。年に一回はマラソン大会が催されて、この先で高校生の自転車グループとも出会うとなれば、それもうなづける。
(ちょっとした登り)
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(見える景色はこんなもの)
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(ここに何かがあったのだろうか。ただの土砂除けかもしれない)
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(かつての坂本宿方面)
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少しばかり急になったようだ。クネクネしているから、さほどには感じない。石積みが続く。ここが刎石坂のようだ。説明板を読むと、登りきったところに上り地蔵と下り地蔵があるそうだ。左カーブで街並みが見えた。坂本宿だろう。ここに「覗」という看板が設置されている。ここで一茶が詠んだ句も紹介されている。古道とはいっても、観光向けといった印象は拭いきれないが、観光地に隣接していればこんなものだろう。流行らない古道なら、踏み跡もかろうじてうっすらで、路傍の地蔵さんも草に埋もれている。それはそれで息苦しいものだ。
(馬頭観音碑)
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(また馬頭観音碑)
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(風穴)
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(また暗くなった)
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(茶屋跡)
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(茶屋跡の石垣)
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馬頭観音碑が続いて風穴。木立の中の道に戻り、少し薄暗くなった。この辺が刎石山かと思うが、小高いところに登っても、それらしき標識はない。山頂を探すのに古道から離れたから、その間にあったらしい弘法の井戸を見逃してしまったようだ。戻ると刎石茶屋跡に出た。ここの看板に記された「現在でも石垣や墓が残っている」の文句が気になった。その墓地を見てみたい。奥に入った。
(墓地)
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(この辺に関所があったらしい)
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確かに墓地があった。倒れたのも含めて墓石は30基近くある。年代を見ると、寛政、正徳、宝永が読みとれる。少なくとも、茶屋は300年以上前にはあったということになる。看板に寺跡のことは記されていなかったから、本寺は坂本宿にあったのだろう。いくら古くとも薄暗い墓地だ。ずっと探索しているのも変人の類に近く、さっさと離れた。
続いて関所跡。ここには東屋が置かれている。関所跡とはいっても、それらしき遺構はなく、看板には「場所と思われる」と記されているに過ぎない。最初に見た番所とこの関所、短区間で二重のチェックをしたのだろうか。ここもまた道は細くなっていて、周囲は雑木林になっている。
(関所を抜けると明るくなった。番所も関所跡も道は狭まって薄暗かった)
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(やはり、暗い感じの方が古道ぽくなるのだが)
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また開けて明るくなった。さも平坦なところを歩いているようだが、実際はじわじわ上りになっていて、この古道の通し歩きでは、単純標高差で400mは登っていた。東屋からの眺めもそうだったが、旧道からの見晴らしはさっぱりで、ここはと思うようなスポットはなかった。せいぜい、妙義らしい岩峰が見えるだけ。
途中、陽だまりの中で休憩して菓子パンを食べる。ここまでだれにも会っていない。静かだ。鳥のさえずりも聞こえない。周囲の樹々は葉を落としている。風もなく気持ちがよい。しばらくボーっとしていた。古道、古道とこだわるが、昔もこんな風景だったのだろうか。峠道とはいっても、ワラジを履き替えるほどのものではないようだ。
(掘り切り。左右が堀切りかと思うが)
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(右斜面の堀切り)
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左の傾斜がきつく、掘り割りされたように狭くなった道を歩いていくと、「掘り切り」の看板があった。こんなところに城があったのかと思ったが、秀吉の北条攻めの際、北条方の松井田城主大導寺駿河守がここに砦を築き、北から侵入する上杉、前田、真田勢に対抗したらしい。両斜面、確かに掘切り状にはなっているが、登って来られないように斜面を削り落としたといった感じになっている。戦の結果は、多勢に無勢で明白。そうか、近世前の碓氷峠は要害の地でもあったのか。今、ここでふと思い出す。大河ドラマの『女太閤記』だったかで、利家役の滝田栄がここの砦を攻めているシーンがあったような気がする。
(南向馬頭観世音)
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(逆光になった北向馬頭観世音)
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尾根を巻くように道が付けられ、見上げると南向馬頭観世音。観音像の脇には、寛政の文字が読めた。繰り返しになるが、こういうのを見ると、古道らしくてほっとする。尾根を回り込むと、今度は北向馬頭観世音。こちらは文化。石仏そのものは逆光で真っ黒になってしまった。どういう表情かわからなかった。
(旧東山道の方はもう道型が定かではない)
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一里塚の説明板があった。ここに一里塚があるわけではない。古代来の東山道の説明が添えられていて、この旧中仙道は東山道をベースに造られたようで、その旧東山道の方に一里塚があるようだ。踏み跡があったので、そちらに行ってみたが、その先はあちこちに窪みがあってどれが道なのか判然とせず、左は急斜面になっているのですぐに引き返した。
ここで、スズの音が聞こえてきたので振り向くと単独氏が歩いて来た。物好きな部類だろうが、古道歩きにこだわる方の気持ちはよくわかる。いつものように、荷解きをするスタイルで先行していただく。もっと距離を開けたく、ついでにタバコを出そうとしたらデイパックの中にはなかった。沢靴入れのどさくさで入れるのを忘れてしまった。
(座頭ころがし)
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落葉の堆積した道になる。そして、また掘り切り状になった。座頭ころがしの看板。急で石がごろごろし、滑りやすい土だからとそう命名したらしいが、名称負けはしている。普通に歩けるし、石はゴロゴロしていなかった。
向こうから話し声が近づいてきた。4人の高校生らしき自転車グループ。なるほど、ここの旧道は自転車でも通れるのだろう。むしろ、かつぐこともなく、ずっと乗りっぱなしで行けるかもしれない。こういうのを見ると、古道歩きのロマンのようなものが失せてしまう。
(旧中山道から離れて、左に下る)
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(栗が原。茶屋を置くならこの辺が適地かと思うが)
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GPSを取り出してチェックすると、めがね橋への分岐道が近づいている。もう起伏はなく、地面の出た普通の道になっている。平らで広いところに出た。看板には「栗が原」とある。下ろうとしている道は「明治天皇御巡幸道路」というらしい。もっとも、自らの足で歩かれたわけはあるまい。馬か篭に乗ってのことだろう。
(明治天皇御巡幸道路)
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(見かけた紅葉1)
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(同じく2)
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(同じく3)
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標識の示すめがね橋方面に下る。短い区間の中山道歩きだったが、歩きやすい道だった。標識も充実していたし、大方はからっと開けた道だった。危険なところはない。マラソン大会があったりで、もはや古道のイメージからは離れてしまっているが、石仏、石碑、古い墓地を見るに付け、古道の雰囲気を感じることはできた。時間つぶしとして飽きるということがなかった。
ひたすら下る。こちらには石仏も石碑もない。紅葉もすでに終わって、道は落葉でフカフカだ。たまに細い沢を横切る。地下タビはすぐに水を吸い、泥んこになった。下に行くほどに、やはり標高の違いか、紅葉が目に付くようになった。ただ、ここもまた樹はまばら。群れた紅葉でないのが残念だ。
(沢に出る。奥に堰堤が見えている)
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(沢の流れ)
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(同じく)
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(沢床はナメ)
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下に沢が見えた。碓氷川の上流部だ。こちらは今日の予定の対象外エリア。上流に小滝が見えたので、道から外れて河原に下りる。これが結構な仕事だった。スパイクなしのただの地下タビだったので、草地の斜面では滑るのなんのって。それなりの高さもあった。ようやく河原に出て小滝に近づいた。部分的にナメになっていた。沢靴だったらそのまま歩きたい。どうせ足は濡れているし、そのまま水に入ろうかと思ったが、水をかぶった石に足を乗せると滑ったのでやめた。
(巡幸路に復帰)
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(架線があるから旧信越本線だろう)
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(沢を見ながら)
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(ここもナメ)
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(入りたくなる)
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(めがね橋の下になる)
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小滝を見物し、このまま河原伝いに上流に行こうとしたが、すぐに堰堤が見えたので引き返す。ナメの流れを見ながら下って行くと、さっきまで歩いていた道の先に復帰した。めがね橋の手前の橋が見えている。行楽客がこの辺まで来ることはなく、人の姿はない。
沢沿いに歩き、小滝というか、段差のある落ちを見ると、河原に下りる。これを繰り返す。ここはナメ床が主体のようだ。水の中を歩きたいが、滑ってケガをするだろう。
(めがね橋)
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(やはり、この沢には寒くなってからでないと入れないようだ)
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(めがね橋を歩くのはやめておこう)
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めがね橋が見え、行楽客の姿がちらほら。やはりあった。<山ヒル注意>の看板。実はこの時点で、碓氷川七滝はもういいかと思っていた。ここまで沢沿いを歩いて河原歩きをしたりしていたからだろうか。別に疲れてはいなかったし、水もまた冷たくはなかった。どうでもいい気分になっていた。やはり、こういうものだ。メインの目的を後回しにするとこういうことになる。
代わりに、当初は嫌がっていた廃線ウォーク、湖畔周回でもやるかという考えが出ている自分自身にあきれて情けなくなる。しかし、こんな思いも、めがね橋に上がった途端にさっと消えた。やめよう。もう帰ろう。人が多い。マスクをつけた。
(こんなところを歩いて)
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(碓氷湖に戻る)
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遊歩道で駐車場に戻るつもりが、道がわからず、旧18号線に出てしまった。予定でいた沢を上から眺めた。ちらりと見えただけだった。なぜか、途中から湖畔ではない遊歩道に出た。駐車場到着12時半。また4時間の半端歩き。ここのところ、こんな歩きばかりになって、心地良い疲れというものから遠ざかっている。何だか、回数稼ぎの間に合わせ歩きばかりやっているみたいだ。
ベンチが空いていたので腰かけておにぎりを食べる。中山道も歩いたし、碓氷川七滝めぐりに改めて来ることもあるまい。ついで歩きに悩みそうだ。安中周辺の滝も大方は見た。駐車場も混み出してきた。車から取ってきたたばこを吸うつもりでいたら、同じベンチにオッサンが座ってしまったのでやめた。高速は使わずにゆっくり帰るとしよう。
(今回の軌跡)
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「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)、数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)、数値地図50mメッシュ(標高)及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24情使、 第921号)」
ここのところずっとそうだが、今回もまたたいした歩きはしていない。敢えて記事にすることでもないが、少しは興味がある方もいるかなと思ったりして。
当初の予定は碓氷川七滝めぐりだった。七滝とはいっても小滝の連瀑で、七滝のある沢の区間は碓氷川の碓氷湖(坂本ダム)への注ぎ口から上流のめがね橋までとかなり短い。その上流となると、自分一人で行くには無理がありそうだ。その短い区間にナメが続き、それぞれの小滝もまた見ごたえがあるらしい。暑い時期に行きたかったが、妙義周辺はヤマビルの巣窟だ。11月になってしまった。忘れかけていたのを思い出したのは18日付けの毎日新聞ローカル版の記事を見てのことで、写真付きの見出しには「めがね橋と紅葉 競演 安中」とあった。
(碓氷湖)

沢歩きだけだったら、おそらくは一時間もあれば済むだろう。ついでに歩けるところはないか。件の記事には<廃線ウォーク>を楽しめるとある。おそらく、<アプトの道>のことかとは思うが、これに湖畔の周回を加えたとしても、敢えて歩きたい気分にはならない。まして、新聞記事の四日後なら、紅葉は確実に終わっている。他にないかと地図を広げると、山中を歩く旧中山道があった。中山道六十九次としては坂本宿と次の軽井沢宿の区間の一部で、その間に碓氷峠がある。碓氷湖から少し戻ったところに入口があり、刎石山を経由する。そのままずっと行けば、軽井沢の熊野神社に至るが、そこまで行ったら、七滝めぐりの時間はなくなる。地図を見れば、途中に南下してめがね橋の先に下る破線路があった。これを下って帰りがけに七滝めぐりを楽しむ。これを本日の歩き予定にした。ここで余談だが、途中で通過する刎石山。「刎ねる」は首を刀で切り落とす以外の意味はない(と思う)。それなりのいわれが地名として残ったのだろうが、不吉な感じに興味津々といったところがある。
ここでちょっとした問題が出た。沢歩きする際の沢靴。ザックはデイパックにしたため、沢靴を入れると、パンパンになって、空きスペースに余裕がなくなった。一旦、旧道歩きから戻って、沢靴に履き替えて再出発してもたいした距離ではない。その時はそう思い、そうしようと、沢靴は車に置き、地下タビを履いて碓氷湖駐車場を出発した。8時30分。
(旧中山道入口。右上に東屋の屋根)

(確かに、さも古道)

旧国道18号線を上り方向に少し歩くと、左手にバス停風の東屋がある。ここが旧中山道の入口だ。看板を読んで、<上州路碓氷とうげのみち>の名称であることを知ったが、甲冑やらで変装してマラソンをする大会をテレビで見たことがある。そのコースがここだったか。正確には、安政遠足マラソンというらしい。なぜに安政としたかは看板には書かれていない。ふれあい道ではないようだ。後で知ったが、安中藩主が安政年間に始めたのがきっかけらしい。
看板には「文化財」として、見所がずらりと並んでいる。後でポイントをチェックすると「弘法の井戸」も含めていくつか見逃してしまったようだ。
中に入る。こう表現をしたのは、古道というのはこんなもので、薄暗い林の中の小道を歩くものと思っていたし、現に、道は杉と檜の混じった林に吸収されていた。それに抵抗を何とも感じなかったのは、どうせ時間つぶしだし、期待はしていないという思いが当初からあったからだろう。
(番所の石垣?)

(薄暗いところからは抜け出した)

そのうちに杉だけの林になった。植林なのかどうかはわからない。雑然と植えられ、間伐も見かけない。そんなところに、さっそく文化財。堂峰番所。説明板を読むと番所があったところらしく、確かにそれらしき石積みが残っている。この辺は狭い回廊状になっている。薄暗いからちょっと気が滅入る。
この先で徐々に低い谷間の風景から抜け出していく。すっきりした展望はないが、右手から陽光が入り、北側の山並みが覗く。
(柱状節理)

続いて「柱状節理」。これは自然の造形だから文化財とはいえまい。この先の文化財を一々、書いていたらきりがないのでこの先は端折ることにするが、おそらくは見た物すべてを記すことになるだろう。この古道に興味があれば歩いてみるのもいい。息苦しく感じるのは最初のうちだけだ。
(こんなのがあると古道歩きも楽しくなる)

気づいたら、からっとした明るい中の歩きになっていて、周囲は道幅の広い疎林というよりも、疎らに樹がある程度になっていた。ここまで、もしかして、番所があったから、わざと道を狭くしていたのかもしれない。早速、お気に入りの古道らしき置物が目に付いた。石碑が5~6基。南無阿弥陀仏やら大日尊と彫られていて、年代は文政やら天保。草書で彫られているのもあるが、こちらは何と読むのか。これがあるから古道という感じにはなるが、何だか、古道ムードは薄らぎ、一般道になってしまった感じがしないでもない。年に一回はマラソン大会が催されて、この先で高校生の自転車グループとも出会うとなれば、それもうなづける。
(ちょっとした登り)

(見える景色はこんなもの)

(ここに何かがあったのだろうか。ただの土砂除けかもしれない)

(かつての坂本宿方面)

少しばかり急になったようだ。クネクネしているから、さほどには感じない。石積みが続く。ここが刎石坂のようだ。説明板を読むと、登りきったところに上り地蔵と下り地蔵があるそうだ。左カーブで街並みが見えた。坂本宿だろう。ここに「覗」という看板が設置されている。ここで一茶が詠んだ句も紹介されている。古道とはいっても、観光向けといった印象は拭いきれないが、観光地に隣接していればこんなものだろう。流行らない古道なら、踏み跡もかろうじてうっすらで、路傍の地蔵さんも草に埋もれている。それはそれで息苦しいものだ。
(馬頭観音碑)

(また馬頭観音碑)

(風穴)

(また暗くなった)

(茶屋跡)

(茶屋跡の石垣)

馬頭観音碑が続いて風穴。木立の中の道に戻り、少し薄暗くなった。この辺が刎石山かと思うが、小高いところに登っても、それらしき標識はない。山頂を探すのに古道から離れたから、その間にあったらしい弘法の井戸を見逃してしまったようだ。戻ると刎石茶屋跡に出た。ここの看板に記された「現在でも石垣や墓が残っている」の文句が気になった。その墓地を見てみたい。奥に入った。
(墓地)

(この辺に関所があったらしい)

確かに墓地があった。倒れたのも含めて墓石は30基近くある。年代を見ると、寛政、正徳、宝永が読みとれる。少なくとも、茶屋は300年以上前にはあったということになる。看板に寺跡のことは記されていなかったから、本寺は坂本宿にあったのだろう。いくら古くとも薄暗い墓地だ。ずっと探索しているのも変人の類に近く、さっさと離れた。
続いて関所跡。ここには東屋が置かれている。関所跡とはいっても、それらしき遺構はなく、看板には「場所と思われる」と記されているに過ぎない。最初に見た番所とこの関所、短区間で二重のチェックをしたのだろうか。ここもまた道は細くなっていて、周囲は雑木林になっている。
(関所を抜けると明るくなった。番所も関所跡も道は狭まって薄暗かった)

(やはり、暗い感じの方が古道ぽくなるのだが)

また開けて明るくなった。さも平坦なところを歩いているようだが、実際はじわじわ上りになっていて、この古道の通し歩きでは、単純標高差で400mは登っていた。東屋からの眺めもそうだったが、旧道からの見晴らしはさっぱりで、ここはと思うようなスポットはなかった。せいぜい、妙義らしい岩峰が見えるだけ。
途中、陽だまりの中で休憩して菓子パンを食べる。ここまでだれにも会っていない。静かだ。鳥のさえずりも聞こえない。周囲の樹々は葉を落としている。風もなく気持ちがよい。しばらくボーっとしていた。古道、古道とこだわるが、昔もこんな風景だったのだろうか。峠道とはいっても、ワラジを履き替えるほどのものではないようだ。
(掘り切り。左右が堀切りかと思うが)

(右斜面の堀切り)

左の傾斜がきつく、掘り割りされたように狭くなった道を歩いていくと、「掘り切り」の看板があった。こんなところに城があったのかと思ったが、秀吉の北条攻めの際、北条方の松井田城主大導寺駿河守がここに砦を築き、北から侵入する上杉、前田、真田勢に対抗したらしい。両斜面、確かに掘切り状にはなっているが、登って来られないように斜面を削り落としたといった感じになっている。戦の結果は、多勢に無勢で明白。そうか、近世前の碓氷峠は要害の地でもあったのか。今、ここでふと思い出す。大河ドラマの『女太閤記』だったかで、利家役の滝田栄がここの砦を攻めているシーンがあったような気がする。
(南向馬頭観世音)

(逆光になった北向馬頭観世音)

尾根を巻くように道が付けられ、見上げると南向馬頭観世音。観音像の脇には、寛政の文字が読めた。繰り返しになるが、こういうのを見ると、古道らしくてほっとする。尾根を回り込むと、今度は北向馬頭観世音。こちらは文化。石仏そのものは逆光で真っ黒になってしまった。どういう表情かわからなかった。
(旧東山道の方はもう道型が定かではない)

一里塚の説明板があった。ここに一里塚があるわけではない。古代来の東山道の説明が添えられていて、この旧中仙道は東山道をベースに造られたようで、その旧東山道の方に一里塚があるようだ。踏み跡があったので、そちらに行ってみたが、その先はあちこちに窪みがあってどれが道なのか判然とせず、左は急斜面になっているのですぐに引き返した。
ここで、スズの音が聞こえてきたので振り向くと単独氏が歩いて来た。物好きな部類だろうが、古道歩きにこだわる方の気持ちはよくわかる。いつものように、荷解きをするスタイルで先行していただく。もっと距離を開けたく、ついでにタバコを出そうとしたらデイパックの中にはなかった。沢靴入れのどさくさで入れるのを忘れてしまった。
(座頭ころがし)

落葉の堆積した道になる。そして、また掘り切り状になった。座頭ころがしの看板。急で石がごろごろし、滑りやすい土だからとそう命名したらしいが、名称負けはしている。普通に歩けるし、石はゴロゴロしていなかった。
向こうから話し声が近づいてきた。4人の高校生らしき自転車グループ。なるほど、ここの旧道は自転車でも通れるのだろう。むしろ、かつぐこともなく、ずっと乗りっぱなしで行けるかもしれない。こういうのを見ると、古道歩きのロマンのようなものが失せてしまう。
(旧中山道から離れて、左に下る)

(栗が原。茶屋を置くならこの辺が適地かと思うが)

GPSを取り出してチェックすると、めがね橋への分岐道が近づいている。もう起伏はなく、地面の出た普通の道になっている。平らで広いところに出た。看板には「栗が原」とある。下ろうとしている道は「明治天皇御巡幸道路」というらしい。もっとも、自らの足で歩かれたわけはあるまい。馬か篭に乗ってのことだろう。
(明治天皇御巡幸道路)

(見かけた紅葉1)

(同じく2)

(同じく3)

標識の示すめがね橋方面に下る。短い区間の中山道歩きだったが、歩きやすい道だった。標識も充実していたし、大方はからっと開けた道だった。危険なところはない。マラソン大会があったりで、もはや古道のイメージからは離れてしまっているが、石仏、石碑、古い墓地を見るに付け、古道の雰囲気を感じることはできた。時間つぶしとして飽きるということがなかった。
ひたすら下る。こちらには石仏も石碑もない。紅葉もすでに終わって、道は落葉でフカフカだ。たまに細い沢を横切る。地下タビはすぐに水を吸い、泥んこになった。下に行くほどに、やはり標高の違いか、紅葉が目に付くようになった。ただ、ここもまた樹はまばら。群れた紅葉でないのが残念だ。
(沢に出る。奥に堰堤が見えている)

(沢の流れ)

(同じく)

(沢床はナメ)

下に沢が見えた。碓氷川の上流部だ。こちらは今日の予定の対象外エリア。上流に小滝が見えたので、道から外れて河原に下りる。これが結構な仕事だった。スパイクなしのただの地下タビだったので、草地の斜面では滑るのなんのって。それなりの高さもあった。ようやく河原に出て小滝に近づいた。部分的にナメになっていた。沢靴だったらそのまま歩きたい。どうせ足は濡れているし、そのまま水に入ろうかと思ったが、水をかぶった石に足を乗せると滑ったのでやめた。
(巡幸路に復帰)

(架線があるから旧信越本線だろう)

(沢を見ながら)

(ここもナメ)

(入りたくなる)

(めがね橋の下になる)

小滝を見物し、このまま河原伝いに上流に行こうとしたが、すぐに堰堤が見えたので引き返す。ナメの流れを見ながら下って行くと、さっきまで歩いていた道の先に復帰した。めがね橋の手前の橋が見えている。行楽客がこの辺まで来ることはなく、人の姿はない。
沢沿いに歩き、小滝というか、段差のある落ちを見ると、河原に下りる。これを繰り返す。ここはナメ床が主体のようだ。水の中を歩きたいが、滑ってケガをするだろう。
(めがね橋)

(やはり、この沢には寒くなってからでないと入れないようだ)

(めがね橋を歩くのはやめておこう)

めがね橋が見え、行楽客の姿がちらほら。やはりあった。<山ヒル注意>の看板。実はこの時点で、碓氷川七滝はもういいかと思っていた。ここまで沢沿いを歩いて河原歩きをしたりしていたからだろうか。別に疲れてはいなかったし、水もまた冷たくはなかった。どうでもいい気分になっていた。やはり、こういうものだ。メインの目的を後回しにするとこういうことになる。
代わりに、当初は嫌がっていた廃線ウォーク、湖畔周回でもやるかという考えが出ている自分自身にあきれて情けなくなる。しかし、こんな思いも、めがね橋に上がった途端にさっと消えた。やめよう。もう帰ろう。人が多い。マスクをつけた。
(こんなところを歩いて)

(碓氷湖に戻る)

遊歩道で駐車場に戻るつもりが、道がわからず、旧18号線に出てしまった。予定でいた沢を上から眺めた。ちらりと見えただけだった。なぜか、途中から湖畔ではない遊歩道に出た。駐車場到着12時半。また4時間の半端歩き。ここのところ、こんな歩きばかりになって、心地良い疲れというものから遠ざかっている。何だか、回数稼ぎの間に合わせ歩きばかりやっているみたいだ。
ベンチが空いていたので腰かけておにぎりを食べる。中山道も歩いたし、碓氷川七滝めぐりに改めて来ることもあるまい。ついで歩きに悩みそうだ。安中周辺の滝も大方は見た。駐車場も混み出してきた。車から取ってきたたばこを吸うつもりでいたら、同じベンチにオッサンが座ってしまったのでやめた。高速は使わずにゆっくり帰るとしよう。
(今回の軌跡)

「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)、数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)、数値地図50mメッシュ(標高)及び基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24情使、 第921号)」